侠客の掟

祖母・竹垣福栄と私
祖母・竹垣福栄と私

 スターティング

 「群集」の中で味わう「孤独」が、人は一番身に染みると云いますが、私もそんな感じの子供でした。

 私は色んな「人の心」を見て来て、色んな「心の表情」を感じて来ました。

 物心が付いた頃より、他人の家を転々として育った「家庭環境」からでしょうか、人の顔色を窺い、その心の隙を突き「閑心」を煽るような子供でした。

 子供だっただけに、純真(うぶ)な心で人を見て、素直な心の分だけ妙に世間を冷めた目で見ていました。

 繊細な神経の持ち主と云うのは、小さな、ほんのわずかな微風でも、時として台風のように感じるものです。

 私は「ガラス」のような「やばくて」繊細な神経なので人は「しんどいやろ」と云いますが、至って「平気」なのです。

 私の「心」と云うのは「しんどく」なる前に「パーン」と弾けるので、そこで「度胸」となり表へ飛び出して行くからです。

 自分の心の中の「しんどい場所」へは返れないのです。

 「度胸」とは、そう云うものなのです。

 押して突いての竹垣悟の人生を、今から静かに綴って行きたいと思います。

東映東京撮影所時代の親分・若山富三郎に付き人として仕えた頃の竹垣悟・帽子に眼鏡姿(写真提供・東映宣伝部)
東映東京撮影所時代の親分・若山富三郎に付き人として仕えた頃の竹垣悟・帽子に眼鏡姿(写真提供・東映宣伝部)

 プロローグ 

 「天照大神」の弟として知られる「須佐之男の命」は「古事記」によれば、ヤクザ的気質の最たるものとして描かれている。

 してみれば、我が国に「神々」が「誕生」した時すでに「ヤクザ的気質」を備えていたという事である。

 しかし昨今の世相を反映してか、この頃のヤクザ気質も、すっかり様変わりし「義理や人情」の世界が色褪せて見える。

 あれほど日本人の心に深く根付いた「浪花節的気質」は、一体何処へ行ってしまったのか・・・今、異国のベルギーを旅し、オランダの地で想うのだが、考えれば考えるほど不思議だ。

 スロバキアのニトロのオリンピアード会場を移してのパーティーで知り合った、ベルギー人の通訳、ローラノ・フーノス(Laurent foens)・通称ローランのように青い目のベルギー人なのに、日本語がペラペラで、おまけに「歌舞伎」の世界と日本の「演歌」が大好きな男が居たりする。

 なぜ青い目のベルギー人に演歌が残って居て、今の若者の心に残ってないのか・・・ 

 不思議な現象だ!

 ひとつ思い当たるとすれば、1970年代初頭に「仁義なき戦い」が上映されヒットしてから以後、世の中の風潮も殺伐として行き、渇き切った心がクールだ等と持てはやされ、その結果が現在(いま)の世相を招いたように感じられる。

 渇き切った心に、熱き心や人の為に流す涙は無縁なのだ。

 それ以前は、高倉健の「日本侠客伝」や、鶴田浩二の「博奕打ちシリーズ」に代表される、仁侠道をモチーフにした情義溢れる映画が主流をなしていた。

 義理と人情の世界に男を見い出し、そんな男達に憧れを抱いたのも、今となっては遠い昔の夢物語りとなってしまったのか・・・

 これからの日本は、果たしてこれで良いのかと倩々(つらつら)考えるのである。

その昔、東映の仁侠映画を見て主人公になりきって映画館を出て来た人も多かった筈だ。

 あの頃の様な、義理と人情の世界への憧れは、一体何処へ行ってしまったのか?

 これらを考えながら、今後のヤクザ気質とは如何にあるべきかを綴ってみたいと思う。

 それには矢張り、古きを尋ね新しきを知ることこそが最善の道であろう。

 そこで私も間接的とはいえ、少なからずヤクザとしての薫陶を受けた、山口組三代目組長・田岡一雄の言葉に耳を傾けてみたい。

 田岡は、本当の親分というのは幡随院長兵衛のような男だと言っている。

 口入れ稼業という正業を持ち「義」に強く「情け」に弱く、常に庶民の側に立って権力と戦い、一歩も譲ることはない、こういう風格のある大親分を目標にしたとも言っている。

 そして子分たちに「あれをせい」「これをせい」といろいろ指図する小物にはなりたくなかったと云い、言葉で教えるのではなく、自分の態度、日常生活、会話の端々から学びとらせる必要があると考えた。

 その為には田岡自身が、生まれ変わらなければならないと考え、組員の鑑みたいになって、己を厳しく律したと、自伝で述懐している。

 この田岡の言葉こそが、ヤクザとしての神髄を端的に表わした言葉であると云えよう。

 田岡が生きた時代というのは、一言で言えばヤクザの黄金期である。

 戦後の混乱期に象徴される、力ひとつでのし上がれる時代だったのだ。

 この頃は、国家自体が新生日本の黎明期であり、何もかも手探りの状態で生きていくのが精一杯だった。

 そこでは、秩序と呼べるものは有名無実と化し、力の有る者が唯一存在感を誇示できる時代だった。

 もちろん治安権は及ばず、戦勝国として勢いづく第三国人等が暴徒と化し、力の限り暴れ回っていた。

 そんな三国人の前に立ちはだかり、日本人としての衿持と、意気込みを示したのが田岡である。

 この時代の田岡には、多くの神戸市民が喝采を送り、国家社会が後押しした。

 こうした田岡の活躍により、神戸の治安は辛うじて維持されたのである。

 田岡の後、山口組四代目を継承する竹中正久は、ヤクザとしての資質で何が一番大切かと問われ「やっぱり辛抱やな」と答えている。

 そして、自身の座右の銘として「忍耐」をあげている。

 又、生き方として「男で死にたい。そりゃ、男だったということで死にたいわな」

 と言っていた。

 その竹中正久に縁があって盃を受け、曲がりなりにも薫陶を受けた筈の私だが、今だに究極の悟りを得られず、五仁會と云う小さな世界を茫洋として、歩んでいる。

 こんな私が、どんな道のりを経て、この五仁會代表への道を歩んできたのか今一度振り返ってみたいと思う。

 恐らく赤面する以外、何物でもない無様(ぶざま)な生き方であろう。

 私如き、元ヤクザ者の生き様など、さして飾り立てる程のものもなく、赤裸々な人生である。

 こんな私の生き様が、世界に広がるグローバルな人への無聊(ぶりょう)の慰めになれば望外の幸せである。

        2013年1月30日 オランダ・アムステルダムにて  竹垣 悟

  獄中時代の瞑想

 竹中正久出所時(昭和54年)に傘を持って出迎える竹垣悟・神戸刑務所前にて

 (写真は週刊朝日のグラビアを飾った一葉)

 

 第一章 理念

 今から私の走って来た人生を綴って行くのだが、その前に暴力団時代に私が感じたことを述べてみたいと思う。

 真っ直ぐ生きて来た私の生き様を知って貰うには、どうしても「私の堅い考え方と性格」も知って貰いたいのである。

 私は或る程度の理解力と、思考力がなければアホは疲れるし、何等進歩も得られないので余り相手にしたくないのだ。

 学習能力の無い奴は、いくら教えても喉元を過ぎれば熱さを忘れるからである。

 知能の高い人間でも馬鹿は沢山居るが、知能の高い分、年を取っても流石で、若者には負けたくないとの「プライド」が、覚えようと努力させるのである。

 知能が高い分「男魂」があり努力もあるので、学習能力に丈(た)けて居るのは事実だ。 

 そんな努力家ばかりが年寄りなら、世の中も年寄り臭い「イモジジィ」ばかりにならなくてよいのだが・・・

 そう云う私も酒を飲んだら、そんな馬鹿の一人だったので数多く失敗もしました。

 その分、行かなくても良い懲役にも行きましたが、その失敗の中での「苦労」が今こうして身に付いたのです。 

 これから私の歩んで来た人生を、綴って行きたいと思います。

 これは、私の通算十数年の獄窓生活の、ほんの一部分です。

 刑務所の中の私の思考部分を見つめて、知的好奇心を満たして頂けたらと思います。

 

 第二章 主張

 時代がかった話ですが・・・

 手前味噌で恐縮するが、私自身、故事、ことわざ、名言集等にも興味があり、また今まで色んな組織の規約や方針を見聞きしてきたが山口組綱領ほど、組織にとっての基本方針を明確にし、且つ組員はいかにあるべきかを如実に求めたものは少ないように思う。

 古今の文献に照らしても何等孫色のない名戒律なのだ。

 それだけに、ここではぜひ山口組綱領に就いて述べてみたいと思う。

 この綱領から山口組総帥としての田岡一雄が求めた組員像が、より鮮明に窺えるからだ。

 強いてはそれが、田岡のヤクザとしての源泉とも云うべき思想や生き様に行き着くのである。

 この綱領作りを吉川勇次に命じ、これを草案したのが吉川が敬慕した滋賀県に在る紅葉の名所として知られる「永源寺」の住職であることは巷間知られている通りだ。

 当時、田岡と戦友の如く何度か死生を共にし、その田岡の思いを吉川が一番理解していたからだと云われている。  

 田岡が三代目を襲名して先ず一番最初に盃を与えたのが、この吉川勇次である。

 この吉川の若い衆であったのが、大川覚、北山悟、平松資夫らで、この時共に田岡の直系若衆に昇格させている。

 この話しは、田岡一雄自伝で苔(こけ)が生えるぐらい読んだのです。

  この本は徳間書店で発行し、それこそ長綱和幸に私が在監中贈恵してもらい刑務所の中でページが指の垢で汚れるぐらい何回も読み返したのです。(竹垣悟らしい話やろ・・・)   

 田岡が、この綱領に基づいて山口組々員の基本的人格を育成しようとしたのである。 

 山口組が、国家の塵(ちり)や芥(あくた)として埋もれないようにしようとしたのは自身の自伝や、その他の文献によっても明らかである。

 しかし悲しいかな、山口組の神髄とも云うべきこの綱領を諳(そら)んじることが出来ない若い者が居ることも又、事実なのだ。

 教育とは、教えることから始まる。

 そして、その教えを育ませることが指導者たる者の責務なのだ。

 だからどの世界でも良い指導者に巡り逢わなければ組織の発展も、人材の育成もおぼつかない。

 「仁義なき戦い」で知られる美能幸三は手記で「つまらん連中が上に立ったから、下の者が苦労し、流血を重ねたのである・・・」と述べている。

 これこそが生殺与奪権を握る指導者たるべき者が、常に心に刻まねばならぬ血の叫びと云えよう。

 また個人の器量に頼り人を動かしていたのでは、早晩、織田信長や豊臣秀吉のように一代限りの組織で終わろう。

 結論は徳川三百年の礎を築いた徳川家康のように組織を作り、人を動かすことこそ長期的展望に添った人材の育成に他ならないのだ!

 こう考えてみると組織とは「個々に決められた役割」を「分担」し、その上で組織内の「力のバランス」を保つという事なのだ!!

 (これは中野会に外様として入った私が骨身に染みた、苦労の中で悟った哲学なのです)  

 だが、この理念が人間の「煩悩」によって古今東西、恒久的に続いた例しがない。

 歴史とは、明確にされた事実である。 

 それだけに私は、過去の歴史を紐解いてみたいのだ。

 日本古来の文化に培われた伝統を見直してもみたいのだ。

 日本文化の伝統と云えば「武士道精神」が全ての根底であると云っても過言ではあるまい。

 桜の花に代表される散りぎわの良さが武士道の神髄であり、佐賀鍋島藩の山本常朝口伝の書「葉隠」の一節「武士道とは死ぬことと見つけたり」と云う言葉こそ、男の潔さと出処進退の鮮やかさを伝えるものはないであろう。

 この本は三島由紀夫がバイブルにした本で三島自身この「葉隠」の入門書を書いている。

 この「葉隠」は私にとってもバイブルとなった本でもある。 

 そしてまた、そんな日本人の心を端的に表わしたのが本居宣長の「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花」という和歌に行きつくのだ。

 これこそが日本人の心の原点だと思うのだ。

 この和歌を大東亜戦争で散華した、学徒動員兵が好んで吟じたのも、うなずける話しなのだ。

 私はこの和歌を神風特攻隊として散華した若者の姿に重ね合わさずには居れないのである。

 

 第三章 戒律

 私が訓示で、今まで一番心を奪われたのが「徳川家康の遺訓」である。

 信偽のほどはさて置き、これ程の名戒律は世界中どこを探しても無いと云えよう。

 意外とも云えるのが、この遺訓には「武士道精神」の「人情」と生きて行く上での「心づもり」が要約してあるのだ。

 この遺訓を基に、山岡荘八が「徳川家康」を書き上げたのは世に知られている通りだ。

 この「徳川家康」を座右の書物としたのが、四代目を継承した竹中正久である。

 確かにこの本には、天下人と云われた徳川家康を通しての人情の機微が満載してある。

 その徳川家康は「孔子」に精通し、儒教を重んじたようである。

 田岡は大長八郎事件で服役したのだが、戦時下のことでもあり、神戸刑務所を皮切りに、大阪、膳所(ぜぜ)、京都と押送に押送を重ね、最後は高知刑務所から出所しているのだが、服役中に右翼の大立者で玄洋社を主宰した頭山満の書物に邂逅し、頭山の教えに傾倒した。 

 その頭山が陽明学に触れた部分に感銘を受け、その後田岡は独自のスタイルでこの陽明学を学んでいる。

 それが田岡の言動から垣間見て取れるのである。

 この陽明学を開いた王陽明と云う人は中国明(みん)代の人で、若い頃は市井無頼の徒であり「仁侠道」におぼれ放逸な生活を送っていたのだが、結局は儒教に行きついた。

 そして「知識と行動は一つでなければならない」とする「矯激」な思想を体現した人としても知られる。

 田岡が、この頭山満にどれだけ傾倒していたかを示すエピソードに高知刑務所を出所後誕生した子息に、この頭山の名前を付けていることからも窺いしれよう。

 この陽明学の大家と云われたのが、歴代の総理大臣の指南役と云われた安岡正篤であり、中村天風である。

 結局、我が国では儒教が国の基盤を為して来たと云っても過言ではないだろう。 

 余談だが、安岡正篤は、晩年に細木数子と再婚した人としても知られる。

 その後の細木数子の活躍は、この安岡正篤の教えが有ってこそのものであると私は思っている。

この細木数子については、私が竹中正久と共に神戸刑務所に服役していた頃、島倉千代子を連れて慰問に来た事がある。

 その時に私が配役されていた工場に島倉千代子と来て、配食中のたくあんをひときれ食べ「おいしいのね」と云って居た言葉が細木の若さと共に強烈に私の心に残っているのだ。

 この島倉千代子を神戸刑務所に慰問で呼んだのは竹中正久で、寄こしたのは山本健一だったのである。

 これは、教誨の集会で竹中正久から「じかに」聞いたことなので間違いないと思う。

 山口組綱領にある「長幼の序を弁え人格の向上を図る」とは、まさにその儒教の原点なのだ。

 学問の奥行きと云うのは奥がないぐらいに深い。

 道を極めるというのは至難の技なのだ。

 それだけに先達の知恵が埋まった書物に、未知の世界を見い出す喜びを見付けるのも或る意味、向上心の表われであろう。

 こんなことは自慢にはならないが私は刑務所に入る度に、自分のまだ見ぬ世界を見聞きする為に、ひたすら読書に没頭することにしている。

 ある時それは、まるで活字のシャワーを浴びているようで読書後は身心共にリフレッシュするのが自分でも解かるのだ。

 そんな私が感銘を受けたのが、竹中正久を通じて知った山岡荘八著の「徳川家康」であり、司馬遼太郎著の「峠」の主人公、河井継之助である。

 田岡は書物について何を愛読書としたのか判然としないが、山中鹿之助の吟じた和歌を座右の銘にしているぐらいなので「尼子十勇士」は愛読書の一つであったと考えられる。

 それに、田岡が刑務所に在監中の頃は現在(いま)と違い、読書をすることくらいしか娯楽はなかったように思うので恐らく、田岡ほどの人物なら読書に「没頭」したはずである。

 「学ぶ」という事は、この世に有益な人間がまたひとり増えることであり国家にとって、これ程好ましいことはないのである。

 これは、私が悟った究極の悟りのほんの一部分である。

 この悟りを同胞として共有して国家社会に貢献出来れば私の本望とする所である。

                             竹垣 悟                       

武闘派として鳴らした竹中武と竹垣悟

(写真提供・アサヒ芸能)

  思想の原点

 田岡一雄のことは、自伝はもちろん色んな人が書いて居るが、書く人によって見る角度が違うので、ここでは私が見た田岡一雄と云うのを綴ってみたいと思う。

 これを、田岡一雄と昭和極道談義とでもしておこうか・・・

 これも今の時代に「敬愛」する「人間像」を求める現代人の「大和心」なのだ。

 この本が或る面、男として生きる道しるべにつながり、その人の人生の「バイブル」になれば、私にとっても国家にとっても有益な事実となるのである。 

 これが「竹垣悟」が云う「国家大成論」である。  

 我が祖国ニッポンの為に散華した若者に代わり、私が述べたい「国士論」でもあるのだ。

 ここで持論を展開するが、世の中に「侠気」が溢れることこそ、我々を生み育んでくれた「祖国ニッポン」への「悠久の大義」として「尽忠報国」の心につながるのである。

 人は「真似る事」から始まり、それを「実践」して「学ぶ」ところから進歩する。

 「親の背中を見て子は育つ」と云うが、これは蓋(けだし) 名言である。

 では私が、田岡一雄について学んだ事を、今から綴って行きたいと思います・・・

 先ず田岡一雄が山口組時報(編集責任者は小田秀臣)で述べたとされる言葉を要約して、私の記憶の糸を手繰(たぐり)寄せながら始めようか・・・

 しかし「竹垣悟の自伝」なのに「なぜ田岡一雄ばかりを書くんだ」と私の心の中で何か疑問が出て来たので「田岡一雄と昭和極道談義」は、また先に伸ばしてみたいと思います。

 本当の事を云えば書いて居た原稿を、古新聞と一緒に「古紙」として捨ててしまったと云うのが真相なのです・・・トホホ・・・

 それも雨降りの時、玄関が濡れてたので、いつもの様に(ここでは、誰とは云えませんが)通路に敷いて居たとか・・・ほんまかいな・・・「物書き」は辛いなぁ~ 

 また、いちから原稿の書き起こしなので、その分「自分自身」も「過去の自分」の歴史を思い起こしながら、新たに「気合」を入れる事が出来るのだ。

 こんな私の心を「育んで」行った「思想」の原点となったものを、此処ではふたつ紹介してみたいと思います。

 どこまで行っても私には高祖父・田中河内介なのです。 

 この人の「大君の 御旗の下に 死してこそ 人と生まれし 甲斐はありけり」と云う、これも「辞世」の「もうひとつの句」として知られる「和歌」を座右のひとつとして今日まで生きて来ました。

 この和歌は「沖縄本土決戦の時」に「沖縄基地本部司令室」に飾られて居た「沖縄守備隊」の「心の糧」となった「和歌」でもあるのです。

 人には「右目」と「左目」が有るように、心にも「右(翼)を見る心」と「左(翼)を見る心」があるのです。

 その「両方の目」で、物事を見なければ社会に通用する大きな心は芽生えないのです。

 そんな私の心の「原点のひとつ」に、石川啄木の「共産主義」への憧れと「思想」が混在して居るのです。

 石川啄木は「曹洞宗」常光寺の住職の長男として生まれたが思想は「赤」で、自身は肺結核で享年26歳の若さで世を去って居る。

 私がなぜ石川啄木かと云うと、この啄木が世を去る年齢の頃、私も(25~6歳の頃)自分の一人角力(ずもう)で苦労したからである。

 私は繊細・緻密を絵に書いた様な男で「いつ切れても」おかしくない単純な男なのです。 

 そんな私の先走り過ぎた、思考経路の中で「人が皆 我より偉く 見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻と親しむ」

と云う「短歌」を目にしたのだ。

 その頃、私には「人の不幸は蜜の味」と人が云って居るように見え、何とも云えぬ孤独感に浸って居たからです。

 ガラスの様な、壊れやすい「若さ」だったのでしょうか・・・

 若いと云うのは時として、苦労と云う字に似たものなのです。  

祖母・福栄の反対を押し切り、料理屋の皿洗いなどをしながら自力で学費を稼ぎ・女子師範学校を主席で卒業した母・竹垣さよ子。当時は珍しくインテリジェンス(理知的考え)であった。今でも、母の事をよく知る人は多い。
祖母・福栄の反対を押し切り、料理屋の皿洗いなどをしながら自力で学費を稼ぎ・女子師範学校を主席で卒業した母・竹垣さよ子。当時は珍しくインテリジェンス(理知的考え)であった。今でも、母の事をよく知る人は多い。

幼少時代

 私が生まれたのは、昭和の戦後・・・朝鮮動乱が前年に勃発し、日本経済が漸く復興の兆しを告げようとして居た矢先の1951年のことである。

 春分の日(3月21日)に、母・竹垣さよ子の長男として春の陽気に誘われて生まれたのだ。

 私の父は・・・

 あやうく「私生児」で生まれるところだったのですが、当時のニッポンの風潮は戦争に敗れたとは云え、まだ質実剛健な気風が世の中に残って居り「戸籍」と云う「親子」の関係になると、それを許さないくらい厳しい世相だったのです。

 母は、私が父親の無い子で生まれるのが、不憫であると思い、私が出生してより数日経って「母の姉」の進めもあり「姉の夫のいとこ」で、広畑の新日鉄に勤めて居た真面目なサラリーマンと入籍することにしたと云って居りました。(私も、この男と一緒に暮らして居れば、さぞ立派な男に育ったと、この男に逢って思いました)

 その男が母と一緒になれなかったら生きて居ても仕方が無いので死ぬと、母にも母の姉にも同じように云ったそうです。

 そこで母も、その男を満更嫌いだった訳でもなく、むしろ好意を持って居た位なので一緒に成ったと云って居りました。 

 私は子供の頃から「戸籍上」の父親は、本当の親ではないと「母が何年かに一度、酒に酔った時」冗談まじりに云うので、分からないまま聞いて居りました。

 まぁ、当時の私にとっては、戸籍等そんな大した問題ではなく、どっちでも良かったのですが成人するに連れ、人間一人のルーツに拘わる事なので、その母の言葉が私の心の何処かに引っ掛かったまま残って居たのです。 

 その頃の母の話し振りからすると、母も酔って居たので私は子供心にひょっとして、石見元秀が私の父親であるかも知れないと「冗談の延長上」の様な感じでそう思った事もあるのです。

 私の母が、酒の酔いに任せて石見元秀の「弟」だと云う所を、石見元秀の・・・と「弟」を飛ばして云うから、子供心に何を、どう考えたら良いやら分からず、それが心に蓄積して行ったのです。

 それから「縁」が有り、実の父に逢う機会が訪れたのです。

 そして会いに行き、話して親である事とかが、実の父親との会話の中で確認出来たのです。

 それから当時可愛がって貰って居た、弁護士の高谷昌弘(鳴海事件で忠成会幹事長・衣笠豊たちを無罪にした弁護士で有名です)を仲に入れ、私が数十万円の弁護料を払い、戸籍上の父親と縁を切ったのです。

 この戸籍上の親は、ハッキリ子供が出来ない、俗に云う「先天的に生殖能力がない男」でした。

 だから、私との親子関係も母に聞いた通りの話しを高谷弁護士がすると、アッサリ籍を戻してくれたのです。

 私が黙って、この男の籍に入ったままにしておけば、家を建てたと聞いて居たので、その家の一軒ぐらいは遺産として貰えたかも知れませんが、それも許さぬ私の性格なのです。

 人間、色々苦労話はあるもので、物語りを話せば切りがありません。

 あまり難しく考えると筆が前に進まないので「このことは」また別の機会に譲るとして、悟と云う名前の由来でも話しましょうか・・・

 「悟」と書いて、小さな吾(われ)と読みます。

 小説「路傍の石」の主人公・吾一のような名前です。

 山本有三が書いた有名な本です。

 この人は「同志の人々」を書いた作家で、私の名前の由来に紡(つなが)る人でした。

 貧しい生まれの少年・吾一が苦難に耐え、誠実に生きてゆく姿を描く・・・官憲の圧力を嫌って作者自ら中絶・・・筆を擱いたので結末は、山本有三しか分かりません。

 朝日新聞に連載していたぐらいなので、きっと「赤色思想」の作家だったと思います。

 私の母の考えを子供心に聞き、案外私の思想も「ブルジョア主義」より「プロレタリア主義」が私の根底に流れ「赤色思想」が掛かって居たのかも知れません。

 そんなところから「共産主義」には今でも一定の理解が私の心の中にはあるのです。

 共産とは、独裁政治のことではなく「本来、インテリジェンス(理知的考え)が目指したものは、共に産み出して行く」共生社会の実現と云うものでした。

 それが、ひとつの力になると指導者を産み、その指導者が人間ゆえの欲望の果てを追うのです。

 酒と色と欲、そして人間としての「煩悩」が色んな果てしない欲となって、最後に「権力欲」として定着するのです。

 ここから先に進むと、私の物知り知識が「毛沢東」の「実践論」を語りたくなり、マルクス・レーニン主義さえ私の心から外へ飛び出すので、ここら辺で止めておきます。

 どこまで行ったか、私の記憶に残る限りの事を思い出しながら「止まっては歩き」「歩いては止まり」と、三歩進んで二歩下がる・・・

 365歩のマーチまで進みましょうか・・・

 水前寺清子が、クラウンレコードからデビューした頃、私は鳩が好きで、毎日伝書鳩で明け暮れて居た「鳩少年」でした。

 鳩以外の事は、私の頭の中から外へ完全に出す様な「鳩キチ少年」でした。 

 その鳩も今だに、私の大切な趣味なのです。

 この歳になって人間、趣味を持つ事は良い事であり、大事なことだと思います。

 生き物の幾とせ「生きる」憐れさを不憫に思う心と、愛しく思う「愛情」が歳を取っても少年の心に戻してくれるのです。

 趣味を持つと云うのは、人間だけに与えられた「神様」の「粋」なハカライだと私は思います。

 人生は、何を語っても全ては劇場(ドラマ)だと思い先に進んで行きます。

 私は、幼稚園こそ、本籍地の城南幼稚園に行き、城南小学校に入学したのですが、なにぶん母一人、子一人ゆえ、祖母の手から離れると、他人の家に預けられるより外、仕方ありません。

 母は、水商売をして居る「女としての母 」を見せるのは、親として何としても避けたかったらしく、最後には「環境が悪い」ので預けたと云って居りました。

 そんな訳で城西小学校へ転校して、全く他人の家へ預けられたのです。

 家庭環境の成せる技なので、私は仕方なかったと思っています。

 ましてそんな話しは、私を育てる為に母がした苦労を思えば取るに足らない事なのです。

 ここら辺の事は、良く理解出来るので何も云う事はありません。

 これが、自分の生まれた「星の下」だったからです。 

 だから、私は自分の不幸な生い立ちを曲げて語る事も有りません。

 これが私の云うところの「プライド」と云うものかも知れません。

 自伝なので、エピソードでもと思い、頭を捻るのですが、ペンばかりが先に進み、考えが付いて行きません。

 物書きの端くれを自認する私が、今日はどうも鋭えません。

 こんな日は、少し休んで、じっくり構想を練り直した方が良いかも知れません。

 でも、私が子供の頃、紙芝居を楽しみに待っていたように「誰か」私のファンがネット上でこれを見る為に待っててくれているかも知れません。

 そう思うと居ても立っても居れないのが私です。 

 だから気力を振り絞って、鯉が川を上がるように私の筆を進めます。

 「三文文士の役立たず」と罵声が飛んで来そうですが、これ位の文筆しか私にはないのかも知れません。

 「よ~、自称・物書きが泣くぞ!」と、東映映画「唐獅子牡丹」のオールナイト上映中に出ていた黄色い声が、床の間の唐獅子から聞こえて来るようで、なぜかまた筆が止まりそうです。

 空回りしそうな、この時間はチョット筆を休めた方が良いようです。

 

 私の記憶の糸と云うのは、子供の頃の記憶をたぐり寄せると切れそうになるのです。

 因果なものです。

 人の生まれと云うやつは、自分の不幸を自分で「隠す癖」があるのです。

 見たくもない不幸な身の上を見るのは、辛い「夜空の冬の空」・・・と云う声をどこかで聞いたような、私の子供の頃の思い出です。

 私の中から「ドラマや!ドラマ」と聞こえて来るのですが人間「嘘」(フィクション)は吐けません。

 嘘で作った自伝(ドラマ)等、誰の心にも残りません。

 書く私も、良心の呵責にさいなまれます。 

 自伝だけでなく、私の文章は全て「ノンフィクション」でしか書きません。

 作り話等を書くと、それを書く私も、知らず知らずの内に「嘘」が心の中に芽生えるからです。 

 シャボン玉のように消えてゆくので「駄文」と云われるのです。

 そして「人の夢」も、ひとつ実現すれば、自分の心から消えて行きます。

 嘘で作った文筆など、誰の心にも残らないと云うのは、手紙が典型的な例なのです。

 私が小学校に入学の頃までは、母とよく「お馬の親子は仲良しこよし、いつでも一緒にポックリ、ポックリ歩く」と唄ったものです。

 私の母が丙午(ひのえうま)だった所為か、この唄が私は好きで「母と二人」でこの唄をよく歌ったのです。

 6才で親を亡くした、田岡一雄の「身を揉んで慟哭した」と云うくだりをこの辺に来たら思い出して、余計心が前に進みません。

 人の上に立つ者の子供の頃とは、淋しく孤独なものなのです。

 そう云えば鳩の先輩で、姫路地区の長老である前田奎治がよく「指揮官は孤独たれ」と教えてくれました。

 人それぞれにドラマがあり、親があり、そして先輩・友人・知人が居たのです。

 私の子供の頃を、振り返って私の為に命を賭けてくれるような人は、母以外見当たりません。

 父親が同居して居たら、父親も私の為に命を賭けてくれたと思います。 

 母一人・子一人故、私の心の太陽は、いつも母でした。

 親ありて 思う心の 里心・・・とでも申しましょうか・・・

 私はいつも淋しくなったら「童謡」を唄うような子供でした。

 空に向って「荒城の月」を一人で唄って涙したこともあります。

 春 こうろうの花のえん。

 巡る盃 影さして・・・

 私と唄の縁は「古い」えにしのように紡がるのです。

 演歌の中にこそ私の心の励みがありました。

 義理と人情も、私の中には演歌から伝わって来たのです。

 母ちゃんのためならエンヤコラ・・・

 美輪明宏の「ヨイトマケの唄」に共感を覚えるのも、私の「母から受け継いだ」「赤色思想」と関係あるのかも知れません。

 年も経ってNHKの紅白歌合戦に「なんと」その「美輪明宏」が大きな声で溌剌と、唄っていたのは「金澤あきえ」が死んだ翌月でした。

 「金澤あきえ」と云うのは、嫁の親で、私もこの人には色々教えられました。

 私の母が早く死んだ所為か、いつの間にか私も「親の心」が解かる歳になっていたのでした。

 私は、嫁の親にせめてもの「孝行」にと「通夜の時」に付けて貰った戒名の上に「光寿院」と云う院号を付けて貰いました。

 通夜の後、式場から帰る「金澤の檀家」の「住職」にお願いしたのです。

 嫁の姉が喪主であり「父親が院号が付いてないのに、なんでお母ちゃんに院号を付けるんや」

 「通夜の時に付けて貰った戒名だけでええんと違うか」と云いましたが、97歳まで生きて、子供や孫の面倒を見て、その子の(私と同居して居る、私の娘の子の一花)まで可愛がってくれた、私の義母へのたったひとつの孝行なのです。

 金澤は「真宗・大谷派・真行寺」の檀家で、墓を見れば分かるのですが「古い旧家」で砥堀の地元では、まあまあの家であったと思います。

 金澤の父が、田んぼや畑、それに「山を一つ」人より少し多めに持って居たので、その地を「バブルの時」はホームセンターコーナンやJAコープ等に貸して居り、契約切れと同時に相手に乞われて金澤の母が少しの田畑を売って、少しばかりの小金は持って居た様です。

 そんな母なので、尚更「葬式」の時の送り名に、私は拘(こだわ)ったのです。

 戒名と云うのは、末代まで付いて回るからです。

 そして、その時の「喪主」の、まあひとつの力も「戒名」に残ると云う事でしょうか・・・

 これも、私は「喪主」を務めた姉とその娘に、嫁の経営する店をずっと手伝って貰って居たので、そのお礼の意味も有ったのです。

 余談が過ぎました。 

 私は、母と云うのは「どこまで行っても親」であり、私にとってはこの世で一番大切なものだと云うのが率直な気持ちです。

 その母の面影を、嫁の親に求めたのも人として「ごく」当たり前の事だと思います。

 この金澤の母はよく笑い、よく食べ、よく動く人でした。

 90歳を過ぎても、畑をして、孫が結婚すると云っては御祝に百万円もの大金を包む人でした。

 私は、嫁や娘にいつも「こんな立派なお母ちゃんは、金のわらじを履いて探しても、どこにもおらへんで」と云います。

 死ぬ前年と一昨年を除いては、いや、3年前からでしょうか、私はこの嫁の母を12月31日から1月2日まで、毎年のように温泉に連れて行くのが私の年の終わりの仕事だったのです。

 子供の頃から、家族団らんが私のひとつの憧れの生活だったからです。 

 義母は、特に雄琴温泉にある「雄琴荘」が気に要ってたみたいですが、そんな親孝行も義母が死んだ今、出来ません。

 いつまでも有ると思うな「親」と「金」、とはよく云ったものです。

 義母の霊が安らかに・・・と祈る今の私です。

 「お母ちゃん」今頃は天国で「お父ちゃん」と逢って一緒に田んぼでも耕して居るんやろか・・・

 また、娘や孫の事を見守って、ハラハラしながらこっちを見てるのと違うやろか。

 お母ちゃんの話は尽きないので、今日はこれで終わります。 

                        平成25年弥生1日  竹垣 悟 

 

人生の邂逅

清田次郎・加茂田重政・竹垣悟の縁

 私が自伝を書いて行く上で、是非とも書き綴って行きたい事がある。

 稲川会五代目会長・清田次郎と加茂田重政、それに私(竹垣悟)の縁と云うものを、エピソードを交えて綴って行きたいのである。

 今まだ、加茂田重政も存命中なので、加茂田が墓場に行くまでに是非書き残しておきたい私の「極道としての記録」なのだ。

 加茂田重政は、三代目山口組の最高幹部の一人で田岡一雄組長が死後、山本広と一和会を結成して、山口組と戦後最大の暴力団抗争事件を繰り広げた当事者のひとりとしても巷間、良く知られて居る人物である。

 

 第一章

 加茂田は一和会解散後、暫くは韓国に住み、韓国の地下組織・七星会とかの連中と付き合い、毎日カジノに明け暮れて五代目山口組の動向を韓国で眺めて居たそうである。

 加茂田ほどの名前のある男なら「いやが応でも」どこに居ても目に付く。

 だから、日本ではその知名度が災いして住めなかったと云うのが真相であろう。

 私は藤岡隆と云う私のスポンサー的な相談相手に、この加茂田の事を頼まれて、加茂田が韓国から帰って来る「伊丹空港」まで迎えに行った事がある。

 空港を出る時、空港警備隊と加茂田は大きな声でお互いが叫ぶと云うか、云い争う様な感じで向き合って居た。

 その横へ行って話しの内容を聞くと、加茂田に警備隊がしっかり身体検査(ボディーチェック)をして居るのを「なんで、わしにそんな事するんどい!わしは今までそんな事一回もされた事ないぞ!だからボディーチェックはさせない」と、息巻いていた。

 私はこの加茂田重政と一緒で、竹中正久もこんな場面が来たら矢張りボディーチェックを拒否するであろうと思った。

 これは、田岡一雄の教えであったのか・・・

 今となっては聞く術(すべ)もない。

 加茂田重政は今、神戸の「市民病院」に入院して居ると巷の話しであるが、私も数年前、加茂田に電話して話したのだが、いつも「わしは今、風邪を引いてしんどい」としか云わないのである。

 その時私は、加茂田は今は弱り、往年の迫力は陰を潜め「好々爺」になって居り、私にはそんな姿を見せたくないのだと思い、以後連絡もして居ない。

 加茂田には、当時私が親しくして居た徳間書店社長・徳間康快から取ったと云う「詫び状」を返して貰った「恩義」が有った。

 加茂田は顔も日本中に良く売れ、体格も良く何よりも「オーラ」が有ったので何処へ行っても目立った。

 神戸・三宮界隈では山口組の連中と逢うので「地元では余り飲みに行かない」と云って居たので、私が加茂田一行を月に1~2回姫路の韓国クラブ等へ案内して居たのである。

 当時、加茂田もヤクザ社会にまだ未練を残して居り、私が竹中組当時は「わし、武さんの舎弟になろかな」と云った事もあるのだ。

 その旨話すと竹中武は「黙ってその話しを聞き流し、他の話しに切り換えた」だから加茂田重政の話しは、それっきりになったのである。

 私は当時の竹中武の山口組内に於ける力なら、加茂田に手を差し伸べる事も可能であったと思う。

 敵将の一人であった加茂田を自分の陣地に取り込む事によって、竹中武の器の大きさも世間に示せるからである。

 加茂田も明友会事件で山口組の為に十数年間服役して居るので、その行為に報いてやるのも男だと思ったからである。

 加茂田は明友会事件では、山口組の大功労者なのだ。

 罪を憎んで人を憎まずとは、上に立つ者の器量を表わした言葉でもあると私は思うからだ。

 竹中武との話しはそれで立ち消えたが、それから私が中野会に行って少し経ってから加茂田が「竹垣、わし、お前(義竜会)の相談役になろうかな?」と云うのである。

 私は加茂田は、山口組の為に長い懲役にも行き、功労者だったと云う思いがその時もまだ残って居たので、その当時の親分であった中野太郎にその旨相談した事がある。

 その時の中野太郎の返事は「うち(義竜会は中野会の傘下だったので、こう云う表現の仕方をしたのだと思うが)に来てくれるのは有り難いが、山口組には一和会の抗争で長い懲役に行って居る者が多いので、これは中野会だけの問題ではない。だから少し難しいぞ」と云われた。

 その言葉を聞いて私も納得行き「加茂田重政」にその旨を説明したのである。 

 そしたら流石、天下の加茂田重政である。

 「そうか、ほならしょうがないな」とアッサリそれ一言で終わりである。

 この加茂田は、何でも歯に衣を着せずハッキリ物を云うが、その分「性格」も「ハッキリ」して居り、私から見れば田岡一雄が可愛がり、山口組随一の加茂田軍団を率いた男だけの事はあると思った。

 性格も豪気を絵に画いた様な男で、極道として生まれて来るべし男だったのではないかと思う。

 この加茂田とのエピソードで忘れられない事が一つある。

 加茂田は当時、東京の麻布十番に住んで居り、東京温泉の社長への取立てを或る社長に頼まれたらしく、そのお鉢が私に回って来たのである。

 私は加茂田の頼みなので、気持ち良く引き受けた。

 相手にアポイントを取り、東京品川のパシフィックホテルのロビーで待ち合わせる事にした。

 そこで、東京温泉の代理人として現われたのが、現在・稲川会五代目会長・清田次郎(当時は山川一家総裁)だ。

 この人は、若い者も連れず一人でやって来たのである。

 私は加茂田の手前、3名の若い者を付き人として連れて行ったのだが、相手の清田次郎が一人なので、私の若い者達は身近に置かず、私とは関係ない様な感じで各々バラバラに座らせ、知らん顔させた。

 そして清田次郎と話し始めると「この話しは夏の幽霊と一緒で、年に一回この時期になると必ず出る話しなんですよ」と実にリアリティーに云い「この問題は当人同士でさせ、我々は地下のバーで世間話でもしましょうか」と云って来たので、私も清田次郎の言葉に頷き、地下のレストラン・バーに入った。

 そして、清田次郎と1対1で話すと「今日は天皇陛下がこの品川近辺を通るとかで、車の規制も有ったので、私は途中車を降り一人で歩いてこのホテルまで来たんですよ」と云うのである。

 この言葉を聞いて「東京のヤクザは紳士だなぁ」と妙に感心したのを昨日の事の様に覚えている。

 そこで2時間位、色んな話しをした。

 「こんな人物は、日本の極道社会にも余り居ないな」と思って居たら、やっぱり後年、稲川会の五代目会長になった。

 この事を週刊誌の報道で知り、私は関係ないのに何だか嬉しくなったのである。

 今考えれば、あの時の清田マジックに掛かった一人でもある。

 生意気な様であるが「武士(さむらい) は、己を知る者の為に死す」と云う言葉があるが、私はあの時の清田次郎の所作とか振る舞いを思い起こすと、その言葉がピッタリとするのである。

 私達若造が見習わなければならない話し方であり、場持ちであり、そして何よりも極道としての姿勢が良かった。

 私は大物と云われるヤクザの親分は何人も見て来たが、竹中正久等に感じた一本筋の通った「筋金入り」の極道と云うものを、この清田次郎にも感じた。

 今となっては歴史に残る親分と、私の様な若造が、膝を交えて「差し」の話しが出来た事は、良い思い出であり名誉な事だと思って居る。

 その後、東京温泉関係の話しは当人同士が話し「お互いが納得して」別れたのだが、その時「相手に請求した小切手の額が2千万円位」だったと思う。

 後日、加茂田から電話があり相手が「2千万円をちぎって話しの決着を付けようと云って来て居る」と云うので、私は「少ない金なら貰ったらあきまへんで」と云い、たぶん私の「勘」では請求額の1・2割を「足代」として云って来るので「そんなハシタ金は貰ったらあきまへんで」と念を押して居たのに、加茂田自身当時は金も無く、一寸しんどいような生活なので「200万円でわしも話しを付けたで」と云って来た。

 私は相手が、清田次郎と云う大物が出て来たので銭金の話しではなく、私がこれからヤクザの世界で売り出して行く為には目先の金に奔らず、先ず稲川会の幹部に、姫路の田舎者でも、こんな意気込みを持った男が居る事を見せたかったのである。

 若いと云うのは、どこか向こう見ずの所が有り、今考えると赤面の至りである。

加茂田重政には、その後余り逢う機会もなくなり現在では疎遠になって居る。

 私は加茂田程の男でも、晩年は寂しい人生を送って居ると聞いた。

 ヤクザの果ては孤独で寂しいものであると、この加茂田の生き様の中でも感じるのだ。

 加茂田重政の弟である加茂田勇も、私が加茂田の番町の家に行くと良く来て居た。

 この加茂田兄弟を当時見て居たら、東映映画で菅原文太・川地民夫主演でして居た「まむしの兄弟シリーズ」を思い出す。

 この兄弟2人の掛け合いは、まるで「まむしの兄弟」の菅原文太と川地民夫の掛け合いだったからである。

 この加茂田勇は、兄の重政がトイレに入ったら私の側に来て、小声で「会長、また兄貴(重政)に内緒で姫路に遊びに行ってもええか」と云うのである。

 聞くと、姫路には競馬場があるので、その競馬場で馬が走って居る時に直に見て馬券を買ってみたいと云うのである。

 加茂田兄弟2人の思い出は尽きないが、兄弟揃って面白い個性が有り、今でも忘れられない人物として私の心に残って居る。

 ヤクザとは、一功成りても晩年はどの人も寂しい人生を送って居る。

 私は、この歳になって分かる事がひとつ有る。

 ヤクザの末路を哀れなものにするひとつの要因が、その人のヤクザ社会への未練が、哀れ心をその人の心に残すのである。

 これは、私が今まで色んな人を見て来て最近特に感じる事である。

 だから私は、これも自分で反面教師にして居る。

 私はヤクザと丸っきり反対の世界を今、生きて居るからだ。

                          癸巳弥生21日  竹垣 悟

鳩を飼い始めた小学3年生

 暴力団組長だった頃の、厳(いか)つい顔ばかりではなく、趣味の世界での私の素顔も綴って行かねばなるまい。

 

 私は小学3年生の時から鳩を飼い始めた。

 叔父が鳩を飼って居たので、近所の桂電気で貰った冷蔵庫の外箱(木枠)で鳩小屋を作ってくれ、仔鳩を1羽プレゼントしてくれたのだが・・・その鳩はすぐ逃がしてどこかへ行ってしまった。

 すごく落ち込んだ私の姿を見て、母が鳩を買う金を出してくれたのだ。

 そしてその金を持って在日韓国人の、寄せ屋(廃品回収業)をして居た徳原と云う兄ちゃんの所に行った。

 この時買った鳩が、紅栗のオスと灰栗のメスだった。

 この内の一羽がまた逃げてしまったのだが、何日かして帰って来た。

 この時の感激が、今だに鳩への愛着となっているのである。

 

 その頃、広畑小学校から八木小学校へ転校したばかりで友達も居らず、他人の家だったので人に馴染めず、だから鳩の帰巣本能にとてつもなく愛(いと)おしさを感じた。

 

 この預けられた家は、東側横手が「八家川」・前が「海」・西側横手がえべっさんと呼ばれた「小島」に囲まれた静寂な地に建つ、夏は海水浴場を営む質実剛健を旨とする家だった。

 因みに冬は海の風が吹きずさむ寒い家で、それでもパンツ一枚に浴衣を着て寝て居たのだ。

 私と一緒に寝て居たのは「藤谷ふじの」と云うお婆さんだった。

 いまは、庭の一角がジェットスキーの係留所になり「シーゲート」と云う屋号のレジャー施設になっており、地名は現在白浜町宇佐崎になっている。

 

 この家から山電・八家駅へ行くのにも遠く、子供の足では1時間近くかかったであろうか・・・

 毎週土曜日の昼から母の住む姫路へ帰り、少しでも母の近くに居りたいと思い、日曜日の夜に放映されるテレビ番組・月光仮面や隠密剣士を観て山電に乗って八家駅まで帰って居たのである。

 だから夜道も一人で週一回は必ず歩いた。

 オバケを信じて居た頃で怖い思いもした。

 そんな怖い思いも、母と一緒に居れる時間を思うとどこかへ吹っ飛んで行った。

 

 何もない畦(あぜ)道の塩田の中を、月の光りを頼りに通り抜けて行くのである。

 この頃に(肝だめしではないが)私に度胸が付いたのかも知れない。

 

 学校へ行くのにも子供の足では矢張り1時間近く掛かったのだが、毎日歩いて通った。

 お陰で私は今でも足腰が強い。

 八木小学校では私が4年生の「冬」全校マラソンがあり、私は上級生を押しのけて学校中で3番か4番になった事がある。

 それで学校も4年坊主に6年生が負けるのは教育概念上良くないと云うので、それ以降全校マラソン大会は開かれなかったのである。

 その時の1位が、五仁會メンバーである井上佳昭の嫁になっている旧姓・柏原加代子である。

 

 私は海が庭の前だったので、泳ぐのも達者で結構長い時間海の中で過ごせる。

 中学は白浜の灘中には行かず、母と一緒に住むようになって居たので地元の白鷺中学に入学した。

 入学した時は白浜小学校から転校して来た同級生で、仲の良かった小林英雄(後に私の舎弟になり竹中組に入って、入墨も私と同じ図柄の竜を入れた)と一緒に水泳部に入って居たぐらいだ。

 もちろん水泳大会は、私の得意だったような記憶がある。

 でも泳げただけで、実際早さはどうだったか・・・

 それとマラソンは自信が有った。

 私は子供の頃からおっちょこちょいで調子者だったが、何をさせても持久力は不思議と有ったのだ。

 私の意地の強さは子供の頃から有名で、私を知ってる人なら誰だって意地っ張りの子供だったと声を揃えて云う筈だ。

 この意地の強さがヤクザの世界へと、私を走らせたのかも知れない。

 

 話を戻す。

 私はとにかく、毎日ずっと鳩で明け暮れて居たような男である。

 学校に行けば勉強は丸っきりせず、授業中は鳩の事ばかりを考え、頭の中は鳩の事だけだった。

 鳩以外の事が頭の中へ入って来ると直ぐ外へ放り出して居た。

 もちろん学校をさぼって鳩ばかり見に行って居た。

 中学3年の時には高校受験に備え、神戸大学の学生が家庭教師に来てくれて居たのだが丸っきり勉強せず、母に内緒で鳩の血統書ばかり書かせて居た。

 これだけは覚えてくれと云うので、英語で曜日だけは覚えた。

 もちろんThis is a pen、My name is SATORU、位の単語は喋れるが・・・それと歴史と文章の作り方とか漢字は、この家庭教師のお陰で人並みに覚えられたのだ。

 何が幸いするか分からず、お陰で私は今ではあまり辞書を引かずとも漢字は書け、このブログを書くのに文章力が役立って居る。      平成25年五月29日  竹垣 悟

子供心に見た真摯な夢

 ここで私が子供の頃からの夢だった「鳩の本場ベルギー」への旅が実現した事への喜びを綴ってみたいと思う。

 

 私は鳩が好きで、その趣味が興じて今年(2013年)1月23日から31日までヨーロッパへ行き、夫婦で鳩のオリンピックと云うべき「世紀の祭典・オリンピアード会場」を見学し「パーティー」にも参加して来た。

 そして鳩の本場、ベルギーやオランダの人達にも逢って食事会にも同席させて貰い、楽しく一週間余りをヨーロッパで過ごして来た。

 オリンピアードでの鳩展示会場には、旧知の「デニス」や「ヘルボッツ」も居り、異国での再会に心が弾んだ。

 ツアーを企画した吉原謙以知・チャンピオン社々長は、私達夫婦と日本鳩レース協会・内山勝博副会長を観光案内する為に「レンタカー」を用意して「オランダ」の街中を一日500キロ駆けて、色々案内してくれた。

 私がジョギングをするのを知って居てくれたので「オランダ」の街中へ入る手前のホテルの駐車場にレンタカーを止め、そこから名所を歩いて廻った。

 歩いてなので「アムステルダム」の街中を隅々まで廻った。

 帰りは車を止めた「ホテル」の近くまで街中を走る「路面電車」に乗って帰ったくらいだ。

 この電車の中も街中と同じで喧騒として居たが「旅の風情」があり、私達夫婦には生涯の思い出となったのである。

 私は「オリンピアード」の「パーティー」会場では、内山勝博に世界愛鳩家連盟のテレード会長を紹介して貰い「異国情緒」を満喫した。

 これが子供心の鳩への憧れと、夢の舞台の大きさだったのかと今更乍らに思った。

スロバキア・ニトラのオリンピアパーティー会場にて、右端ヤン・ヘルマン、その隣が鈴木喜一郎、熊さん、通訳のローラノ・フーノス、中央に立って居るのが吉原謙以知、竹垣夫妻、富野次夫、左端島村正、ツアーメンバーとの記念写真
スロバキア・ニトラのオリンピアパーティー会場にて、右端ヤン・ヘルマン、その隣が鈴木喜一郎、熊さん、通訳のローラノ・フーノス、中央に立って居るのが吉原謙以知、竹垣夫妻、富野次夫、左端島村正、ツアーメンバーとの記念写真

 たとえ一瞬の出逢いであっても「人の親切な骨折り」は、いつも嬉しいものだ。

 

 ・・・オランダ鳩界の大御所で「ダイフ紙」と云う新聞を発行する「ヤン・ヘルマン」にも、大変お世話になった。

 

 来年1月に行われる「吉原チャンピオン社」主催の40周年パーティーに、このヤン・ヘルマンを始め、40数名の「ヨーロッパ一流」の「フライター」が参加するそうなのでその場での再会を楽しみにしている。

 

 昭和30年代・団塊の世代が少年の頃、日本中に鳩ブームが起きたのだが、その頃を思い出して、その人達にも是非鳩の飼育を再開してもらいたいものだ。

 私は吉永小百合の「キューポラのある街」をDVDで何年かに一回観るのだが、その頃の自分を思い出しては夢を追う事の素晴らしさに胸がときめくのだ。                                   平成25年弥生30日  竹垣 悟