お中元に対する 竹垣悟の主張

 今日は少し趣向を変えて「五仁會」の主張ではなく、俺個人の主張を述べたいと思う・・・

 

 俺も 若いと思っていたら、いつの間にやら数え年で65歳になった。

 そこで、今まで色んな人の生き様や経験を思い起こしてみた。

 

 或る人は 体も悪く、年の所為で奥さんも亡くしたと云う。

 それを知らずに昨年歳暮を出した。

 出して悪い事をしたと思い、心が痛んだ。

 

 こんな事は、これからの人生では日常茶飯事だろう。

 何と云っても 皆が後期高齢者になりつつあるからだ。

 

 そこで金銭的に余分な負担を掛けまいと決め、今季から 俺の方から「中元・歳暮」の類(たぐい)は出すまいと決めた。

 人に心労を与えるのも気が引けるからだ。

 

 孟子様が説えた人間の性善説と云うのは、この様な場合の事を云うのではないかと 最近うすらぼんやりと分かりかけて来た。

 

 大概の人は こちらが誠意を尽くせば必ず 義理や恩を感じ、それなりの礼は尽くすものだ。

 そんな礼儀を知らない奴とは 俺は還暦を過ぎてからは 付き合わなくしている。

 

 でないと、つまらん奴がいつまでも のさばる。

 

 日本人と云うのは 特にお人好しで 浪花節的気質の者が多く、俺たち家族の者は その極みだろう・・・

 

 さて本題に入ろう・・・

 

 冠省

 私も今年で数えで六十五才になります。

 

 御中元・御歳暮と長いお付き合いをして頂きましたが

これを区切りに私も残りの人生を考えた時、これまで「中元・歳暮」に使ってきた「お金」を今やっているNPO法人・五仁會の活動資金に使って行こうと考えました。

 

 これらのお金で施設での生活を強いられている子供達に、文房具やランドセルのひとつでも買ってやる事が出来ればと思っています。

 

 盆・暮れのお付き合いは出来なくなりましたが 年賀状・暑中見舞いは私が生きている限り出します。

 

 私の終生のテーマであるボランティア活動に御理解下さるように切にお願い申し上げる次第であります。

 

 勝手な言い草ですが、申し訳ありません。

 

 尚、送って頂いても気を遣いますので、それも辞退申し上げます。

 

 本当に申し訳ありません。   怱々

 

 この一文を以て 40年近く続けて来た「中元」や「歳暮」は止める事にした。

 人間には いつか限りがあるからである。

 

 後期高齢者が多くなった今、中元の品ひとつ返すにも 大変な思いをしている人も結構多いだろう・・・

 だから俺から止めるとハガキを出した。     平成27年6月24日  竹垣 悟

世論の悪評を斬りつつ、世論の陰に隠れた物事を考える

 最近の世の中と云うのは、憲法改正と それに付随する沖縄基地問題が 大きくクローズアップされているようだが、肝心な日本国内の生活保護費問題とか 議員の不適切行為等は どうなったのだろう・・・

 

 こんな事を考えるのは ひとり私だけだろうか・・・

 

 ましてや我々五仁會の主張する暴力団員と犯罪者の自立更生支援等は、生活保護費問題と同等の扱いしか受けていないのが 昨今の現状みたいな気がする。

 

 確かに憲法改正に資する諸問題は 国の根幹を揺るがせないとも限らないので、慎重に 尚且つ慎重に物事を考えて行動せねばならないと思うが、これが最近私のような唐変木まで解かって来たと云うのが現状だ。

 

 しかしだ、大きな問題も 小さな問題も、一国を動かして行く上で、物事の軽重に関係なく 何事も一歩づつ踏み込んで行かなければ 良い政治環境は作れないと 俺は思うのだ。

 

 そこら辺の事を考えながら 我々五仁會も、今一度原点に返り「五仁會の系譜と主張」を改めて見つめ直したいと思う今日此の頃の私である。   平成27年6月6日  竹垣 悟

五仁會の原点

田中河内介の肖像画
田中河内介の肖像画

 五仁會(竹垣悟)の発想は、いままで色んな場面で述べて来たが、今日は少し視点を変えて述べてみたいと思う。

 

 先ず五仁會の系譜だが、これは武士道精神を発揚して明治維新の魁となった公家侍・田中河内介の行動に端を発しているのである。

 

 作家の山本有三は、幕末に京都で起きた寺田屋騒動の顛末を「同志の人々」と云う本に描いている。

 この主人公 田中河内介は出石の医師・小森正造の次男として伝えられるが、これは誤りで正確に云えば仙石騒動で有名な但馬の出石藩家老・仙石左京の次男である。

 

 私は田中河内介の研究を進めて行く内に、老若を問わず社会に有益な人材を育成して行かなければならないと思った。

 

 幕末の偉人が皆、人材の育成を心掛けて実践していたから今日の日本があるのだ。

 もちろん尊皇派が主幹を為して、国体を護持して来たのは云うまでもない。

 

 明治維新以降、天皇陛下を中心に新しい国家の建設が始まり、士農工商と云う身分制度が取れ、日本は自由で闊達な国になって行くのである。

 

 ここで私の持論を述べる・・・

 私は団塊の世代こそ、日本の高度成長期を担って苦労したと思うのだ。

 そこで、団塊の世代が安定した世代になった今、若い頃と同じように、懐にあるお金を循環させ世の中の景気を良くしてもらいたいのだ。

 

 お金は世の中を景気の良い方向に回して行く為にあるものだと私は教えられた・・・

 

 その考えに沿って活気のある街づくりをして行きたいのだが、五仁會にはそれだけの財力がない。

 そこで名のある人材を広く天下に公募中だ。

                        平成26年9月17日  竹垣 悟

五仁會版・子ども見守り隊を語る

五仁會の本拠地として、再出発した築60年の家。
五仁會の本拠地として、再出発した築60年の家。

 五仁會も、満を持して本格的な活動に入った。

 私の自宅にある事務所にも、最近人が出入りするようになった。

 

 7月31日から、外壁に「特定非営利活動法人・五仁會」と大書きした看板を取り付け、その下に「五仁會は・・・社会に有益な人材を育成する事業を行い、犯罪減少・地域社会の安全等による共益増進に寄与することを目的とする」と書き、道行く人の目に留まるようにした。

 

 自宅を活動拠点として使用するのに少し抵抗を感じたが、私が一旦「決断」した事だと思い、迷わず更生活動の本拠地としてデビューさせた。

 

 今は学校も夏休みだが、新学期が始まれば「白鷺小学校」のスクールボランティアとして、黄色いベストを着用して「子ども見守り隊」の旗を持ち、下校時、城南地区の子どもたちの安全と、いじめ等の見守りを再開するつもりだ。

 

 私が旗を持って、白鷺小学校の学童たちを見守っていると最初の頃、近所の城南多胡病院の理事長が「ご苦労さんやなぁ」と云って声を掛けてくれた。

 

 私にとって、この言葉がどれだけ励みになったかわからない。

 

 その次会った時は「子どもたちの為に頑張ったってよ」と声を掛けてくれた。

 こんな一言が、ボランティアをしている人間には何よりも嬉しいのだ。

 

 ・・・私が竹中組々員だった二十代前半の頃、男気を出して指を飛ばしたのだが、その指を手術してもらったのが、他ならぬ城南多胡病院の院長(現理事長)だったのである。

 

 私が堅気になって地域社会に貢献している姿を見て、子供の頃から同じ地域に住む後輩の私に陰乍ら声援を送ってくれるのだろう・・・

 

 城南地区連合自治会長の長谷川國雄会長も、私が生まれ育った家と背中合わせに「隣同士」だったので、今でも何かと私を社会奉仕への道へ導いてくれる。

 

 私は良い人に恵まれ、地域社会に貢献出来ることを誇りに思っている。

                        平成26年8月5日  竹垣 悟

知的障がい者に対する支援活動

兵庫県 出石精和園成人寮の前から新免正礼常務が撮ったワンショット
兵庫県 出石精和園成人寮の前から新免正礼常務が撮ったワンショット

 五仁會の事業所を4月20日に開設してから常務理事の新免正礼が土・日・祝日を除き、事業所に昼1時から3時まで、いつでも顔を出せる体制にした。

 

 相談事は前にも書いたが当分の間、我々の活動に賛同してくれる人に限らせて頂く。

 

 ・・・藤田まことの仕事人ではないが、五仁會の口座に協賛金を振り込んでくれた人だけを対象にしたいのだ。

 

 五仁會は引き込もりやニート、その他非行少年の事にも相談に乗る。

 私個人としては、どんな事でも社会に貢献出来るなら、身をいとわず遣るつもりでいる。

 

 去る4月20日には、新免常務とふたりで出石の精和園に行って来た。

 

 ここで暮らす人は、企業で雇用されることが困難な知的障がい者に対し就労の機会を提供して、一般就労への訓練を行なうことで定評のある施設だ。

 

 私がむかし引き取って家族同然に暮らした子が、ここで今、職業訓練をしている。

 この子には主に鳩の世話をさせて居たのだが、私が見込んだ通り真面目に鳩の世話に励んでいた。

 

 私は機会があれば、こういう子達に生き物の世話係をさせるのも社会正義のひとつだと思うのだ。

 

 姫路で生まれ育った人間を、姫路で活動する我々が支えてやるのがボランティア活動の基本であり、一番大事なことであると思うからだ。

 

 少しずつだが事業所の内容を前に進めて行けるように、努力している最中である。

                       平成26年卯月28日  竹垣 悟

五仁會 事業所開設

五仁會・事業所の表札
五仁會・事業所の表札

 桜の花の咲くころに、私は五仁會・事業所を立ち上げたいと以前トップページに書いた。

 

 その事業所が、去る3月25日に完成した。

 

 当初、NPO法人ビルの一室を借りて相談員を置き、本格的に活動する予定だったが、そのビルの一室は、すでに先約があり立ち消えになった。

 

 そこで旅館のあとだった私の自宅を少しリフォームして、事業所とすることにした。

 

 男が一旦、桜の花が咲くころには事業所を立ち上げると云った手前、何がなんでも有言実行しなければ気がすまない私の性格である。

 

 無理したが、嫁も気持良く同意してくれ何とか立ち上げた。

 

 一階の居間を洋風にリフォームして相談所にしたので、二階の応接セットをこの相談室に移した。

 

 その二階の部屋にベッドを置き、刑務所からの出所者を迎え入れられるようにするのだ。

 

 むかし取った杵柄(きねづか)と云うもので、私が暴力団・組長時代 刑務所帰りも部屋住みとして置いて居たので、その方面は経験済みなのである。

 

 相談は予約制だが、当初は五仁會の主旨に賛同してくれる人だけを対象にして行くつもりだ。

 

 相談料は無料である。

 

 私は何事も綺麗事を云うつもりはない。

 

 何でも本音で語り、顔を合わせて物を云い、ひとつの物事を相談者の立場になって考えて行きたいと思う。

 

 ・・・五仁會の活動だが、去る3月19日に官民一体で行なう安全・安心の街づくりに参加して来た。

 

 従来の警察・防犯協会・地元町内会・市役所・NPO法人アンビシャスコーポレーションに加えて、自動販売機関係の団体が参加して一緒に繁華街をパトロールした。

 

 五仁會の主張は飽くまでも、安全・安心の街づくりなのである。

 

 だから、ゆりかごから墓場まで、どんな相談でも受けられる資金力があればと、今それを真摯に考えている。

 

 私は天下の素浪人なので、禄を育(はぐく)むことになる官の補助金は一切受けない主義なのだ。

                        平成26年卯月9日  竹垣 悟

平成25年度 姫路市安全安心市民大会

私の席から見た石見利勝市長と、表彰を受ける姫路・飾磨・網干の警察官たち。この人たちの行動は、きびきびしてまるでむかしの、軍人を見て居るようだった。
私の席から見た石見利勝市長と、表彰を受ける姫路・飾磨・網干の警察官たち。この人たちの行動は、きびきびしてまるでむかしの、軍人を見て居るようだった。

 「市民と警察のつどい」に参加して来た・・・

 

 11月26日午後2時から、姫路市民会館で行なわれたのだ。

 

 この大会には、多数の警察官が夫婦揃って出席して居た。

 そして10組の地域で優秀な警察官に石見利勝市長より、感謝状と記念品が贈られて居た。

 

 その他、防犯活動とか地域住民に対してボランティア活動で、安心・安全の街づくりに貢献して居る団体にも賞状が贈られて居た。

 

 私は2時から開催されるこの行事に1時間前に到着し、市民会館の受け付け近くでモタモタして居た。

 そこで姫路市危機管理室に兵庫県警から出向して居る松尾俊広参事に逢った。

 

 そして入り口でパンフレットが入った袋を貰って会場に入った。

 

 私の席は前列の5列目の中央付近で、市長の所信表明や飾磨警察署長(姫路警察署長の代理)の訓話等も、ゆっくり聞いた。

 こう云う取り組みに出席するだけで、我々の活動にも弾みがつく。

 

 私はここ何年か、この行事に参加して居るのだが、今年は兵庫県警察音楽隊によるステージ演奏があり、婦人警官によるマジックショーや踊りがあり、妙なところで新鮮な驚きがあった。

 私の場合、1時(私が時間を間違えて居た)から会場に入って4時の終了までみっちり居たので、安全・安心の街づくりを充分堪能した。

 

 私の「みんなでつくろう安心の街」もそろそろ佳境に入って来た。

 

 「五仁會・防犯パトロール実施中!」と大書きした旗を持って駅前周辺を、パトロールしたのだが、この活動がやがては、後々の伝説になり、平成ニッポンの夜明けにつながればこれにまさる喜びはないのである。

 

 ・・・むかしのチンドン屋と云うのは、勇気と度胸が要ったものだと改めて思うのだ。

                                                   平成25年師走6日  竹垣 悟

「安全・安心の街作り」に取り組む五仁會

写真は平成25年10月5日付け産経新聞朝刊より掲載 幟を持ってパトロールをする竹垣悟
写真は平成25年10月5日付け産経新聞朝刊より掲載 幟を持ってパトロールをする竹垣悟

 平成25年10月4日「歓楽街環境浄化パトロール」が行なわれた。

 

 警察からパトカーが2台出て、消防署から大型消防車が出て、防犯協会から会員が出て、そして地域住民が出て、市職員や私達NPO法人では五仁會とアンビシャスも参加して、姫路の歓楽街を幟(のぼり)を立てて官と民が一体となって違法行為に目を光らせ巡回した。

 

 今日は行政の方も力が入って居たみたいで、世界文化遺産としての姫路城下の治安の良さがアピール出来たので非常に良かったと思う。

 

 この治安の良さを守る事こそ私たち五仁會の主張そのものなのだ。

 

 これから国際都市の仲間入りをするのには丁度良い機会であり、姫路の治安に対する取り組みが大きくアピール出来た事は、この地域に住む住民のひとりとして喜ばしい限りである。

 

 今日一緒に参加させて頂いた城南連合自治会や防犯協会、それに市役所の職員・消防署・警察の人達には感謝する次第である。

 

 それにしてもパトカーと消防車が出動してのパトロールは現実的であり、効果絶大であった様に思う。

 こんな良い企画は一回だけではなく、継続して行なってもらいたいものだ。

 「継続は力なり」と云うからである。

 

 安全・安心の街作りもそろそろ佳境に入って来たようだ。

 

 機会があれば、NPO法人としての社会貢献の為に五仁會独自に安全・安心の街作りをスローガンにパトロールしてみたいと思って居る。

 

 その時は時間が許せば色んな団体、そして個人にも参加して貰いたいものだ。                            平成25年神無月5日  竹垣 悟

五仁會活動家の主張

 竹垣会長が暴力団員を更生支援するとは一体どのようにするのですか・・・と、聞かれた。

 

 私は世の中の流れとして「国家」が暴力団を無くそうとして居るので、その前に自分で進んで暴力団を離脱して、堅気になって社会に溶け込んで行ける様に我々五仁會が応援する事だ、と答えた。

 そして、本人のヤル気を促し就労支援をして行きたいと思って居る。

 

 どちらになっても本人が自分で堅気になろうと決断し、それを実行して行かなければ駄目だ。

 本人が確たる信念で堅気になって社会人になろうと思うなら、私と一緒に五仁會で更生活動を始めて行こうではないか・・・

 

 学生時代を振り返ってみれば解る様に、社会に出て誰が暴力団に入ろうと思ったであろうか・・・

 

 仮に私の様に入って良い目をしても、その分だけ苦労するのである。

 その時した苦労を考えると、私は二度と暴力団社会には戻りたくない。

 世の中そんなに甘くないのだ。

 

 私は社会からの落ちこぼれや、暴力団からドロップアウトした人間と一緒に、国家社会に貢献してみたいのである。

 

 但し、刑務所を出所した者を引き受けるには、五仁會としての取り決めがある。

 

 更生支援するのは初犯刑務所か少年刑務所、もしくは女子刑務所の出所者だけを(当分の間は)引き受けたいと思って居る。

 再犯コテコテの人間は、私達五仁會の手には、今の状況では負えないのだ。

 

 私共五仁會は、飽く迄もボランティアでやって居るので、五仁會カラーと云うものがあり、身銭を切っても納得出来る人を更生させてみたいからである。

 

 官から補助金を貰ってするのであれば、ビジネスだと割り切れるのだが、国からお金を援助して貰っては、私の考えるボランティア精神に反するから今は身銭を切って居るのが現状だ。

 

 自己資金も限度があるので当分はゆっくりしか進めないが、その内に社会が我々五仁會を必要とする時が必ず「やって来る」と信じて、ボランティア活動に尚一層精を出して居るのである。

 

 こんな我々五仁會の活動を理解し応援してやろうと思われる方は、迷わず私の所まで連絡下さい。

 必ず「無」から「有」が生まれると信じます。

                       平成25年水無月2日  竹垣 悟                   

 

姫路市暴力団排除条例が本日(平成25年)4月1日から施行

 この暴排条例は、我々五仁會の活動によって出来たものである。

 

 思えば、この暴排条例が姫路市の行政課・児玉清隆課長補佐の手に届くまで、私は道筋を踏んで時期を待ち、正規の手続きを経て提出したのである。

 そして市議会議員の全てと、城南地区連合自治会の一部役員にも「条例(案)」を郵送し「条例作り」の「草の根運動」を展開したのだ。

 

 「暴力団員と犯罪者の自立更生支援」が我々「五仁會」の主張するところであるからだ。

 それだけに何としても「姫路市に暴力団排除条例」を制定しておきたかったのが本音である。

 これで、やっと五仁會の活動も姫路市に認められたと云う事だ。

 

 人に散々「笑われた」が「笑った奴」もこれで、竹垣悟と云う男の「やると思えばどこまでやるさ」と云う人生劇場の一節が分かった筈だ。

 

 この条例が出来てなかったら、私は娘に「お父さん!今でもお父さんは、本人が堅気や思とうだけで、誰も堅気や思ってないんやで!」「お父さんの事を見て、誰が普通のおっさんやと思う。お父さんもええ歳してそんな事も分からへんのん」と云われたのである。

 

 そして、私の事をまるでヤクザの親分の様に云うのである。

 「よう云うわ。お前考えてみい。ヤクザが反社会主義撲滅と大書きした車を作って、それに乗れるか?」「暴力団は侠客になれ、とアホのおっさんみたいに車に書いて誰が走る。お父さんやからこそアホのおっさんになれるんやで」それに「お父さんは自分の金で車を買って、ガソリン入れて、それで走っとんや!」と云い返した。

 

 高倉健の「男の誓い」と云う唄の一節にある「極道者でも一度位は世間の為に命を張るんだ 男を掛けて・・・」と、この歌を地で行ってるのに、こんな事を云われたら「カックリ寛太になるがな!」「俺は姫路の高倉健やど」「そやから高倉健のように顔も黒くしたんや」と「シャレ」も含めて云うと、そしたら娘は「シャレ」を真剣に取り「そんな日焼けにお金使うんやったら、もっと他に金使う所があるやろ」と云われた。

 

 そして娘の横に居た、娘の子まで「とうちゃん、ええかげんにしいよ。ママの云う通りやで。日焼け行くんやったら一花に文章書くのを教えて」と云う。

 「夏休みに宿題で文章書かなあかんねん」と云うのだ。

 この時、丁度「まん」が悪く、ケーブルテレビで「一花の小学校の友達が、作文で表彰されて居たのが映っていたからだ」

 

 私も娘や、娘の子に掛かったら「高倉健」が「ビートたけし」の「タケちゃんマン」になってしまうのだ。

 

 では今から、私が姫路市へ提出した暴排条例の先駆けとなった文を掲載する。

 あと、私が構成した条例骨子案は「日本青少年更生社」のホームページに早くから載せてあるので、私の(案)に興味のある方はそちらを見て欲しいと思う。

 

 私が作った「条例案」と「今回施行される条例」は、少しだけ違う所が有るが、それも児玉課長補佐から聞いて居たので理解出来て居る。

 

 この課長補佐は、兵庫県警から出向で市役所に来て居るのだが、若いだけに正義の為に一生懸命行政課としての責務を果たして居るのだ。

 将来が楽しみな行政マンのひとりである。

 この人が「正義」の為に、と云う言葉が、私は好きなのだ。

                        平成25年卯月1日  竹垣 悟

 

姫路市自治基本条例骨子(案) 

 姫路市における「暴力団排除の推進に関する条例」の制定を求める次第である。

 我が姫路市には、世界文化遺産に登録されている国宝姫路城があり、全国戦没者慰霊塔があり、インドのネール首相より贈られた釈迦の遺骨が入った仏舎利塔がありで・・・観光都市として国内外の観光客が多数訪れているのが現状である。

 日本の国に取っても代表的な観光地のひとつである事は衆目の一致する所であろう。

 観光地である以上、観光客の安全と安心感を第一に考えるのが市としての責務なのだ。

 その姫路市に暴力団排除条例がないのは時代に逆行して居るのではないか。

 そこでこの際姫路市が主催して、暴力団組織の排除の推進を図り、社会に有益な人材を育てて行く骨子を作成して行かなければなるまい。

 

趣旨

 暴力団は恐喝・賭博・拳銃や麻薬の密売と云った犯罪行為を、資金源確保の一環として行う集団である。

 対立抗争が発生すれば拳銃で応戦し、発砲し一般市民を巻き込む事件を起こしたりしている。最近は弁護士法違反となるような債権回収を行ったり、示談交渉等市民の経済基盤にまで深浸して行き、市民の健全な生活をおびやかして居るのが現状だ。

 そこで市民や事業者、行政または我々NPO法人が一体となって暴力団社会を一般市民の生活基盤から排除して行くのが今現在、行政に求められている一番の課題だと断定する次第である。

 これから姫路が法治都市として国際的概念を備えた観光都市として発展して行く為には、暴力団組織は必要ないのである。

 その確たる概念で、姫路市を格調ある都市に変貌させて行かなければならないのだ。

 その役目の一担を我々特定非営利活動法人が担える様な形体が今一番相応しいのではないだろうか。

 民間で暴力団員と犯罪者の自立更生支援と云うテーマで、その世界に鋭く切り込んだのは、私共五仁會が最初だと自負するからこそ自治基本条例骨子を上申するのである。

 そして誰もが世界の文化遺産として姫路城の魅力を全世界に発信して行かなければならないのである。

 そうする事によって、姫路市の繁栄と観光都市としての飛躍は世界に約束されたと云っても過言ではないと信じる次第である。

 

 結論として五三万六千九五人が住む中核都市姫路市に暴力団排除条例が無いのは不自然であり、市民感情が行政に届いてないと断定するに至るのである。

 

  平成24720日に姫路市企画政策推進室に提出

                             〒6700016

                                                                                       姫路市坂元町八番地

                         特定非営利活動法人 五仁會

                                                                                            代表 竹垣 悟

 

清掃活動について

 3月23日午前10時より、外堀川公園に集合して、NPO法人アンビシャスコーポレーションの主催により、外堀川の清掃活動に参加して来た。

 

 アンビシャスはボートと長靴まで用意して、本格的な清掃活動である。

 姫路市市民局市民参画部・高田健司所長と、日本復興青年団代表・溝口隆男も参加して居た。

 

 十数名の参加だったが、庄田の神社近辺の川が一変に綺麗になった。

 私は久し振りに川に入り、ゴミ拾いをした。

 川からゴミが「出るわ」「出るわ」で、市のゴミ袋に沢山出た。

 

 詳しくはNPO法人アンビシャスコーポレーションのホームページを見て貰えば判ると思う。

 

 2時間近く川の中に居て「アンビシャス」から、お食事弁当を頂いて喰った。

 久し振りにスッキリしたボランティアな汗を流したので食事が美味しかった。

 

 私は、友好団体のボランティア活動なら呼ばれたら何処へでも行きまっせ。

 金儲けのボランティアはお断りしますけど。          癸巳弥生23日  竹垣 悟  

五仁會が共鳴する活動への取組み

 2013年3月22日午後7時30分から姫路・城南公園にて「姫路警察署」と「防犯協会」それに「城南地区連合自治会」と、3班に別れて魚町・塩町の繁華街を大きな幟(のぼり)を持って、恒例のパトロールに参加した。

 

 7年余り前まで私は、暴力団・義竜会の会長として、この繁華街に事務所を持ち、強面(こわもて)の顔で、時には睨みを効かせて闊歩して居たのである。

 それが今では「悪質な客引き」を取り締まる警察官と一緒に「安全で安心な街作り」に協力する「地域住民」として活動して居るのだ。

 

 私は、いわば街の「パトロール隊」として「坂元町の住民」として「町内会」の安全の為に参加したのだ。

 

 大げさに云えば、幕末に京都の街を自警した「見廻組」とか「新撰組」のような気分で、自治会に忠誠を誓う云わば「さむらい」といった感じだ。

 

 この地道な活動が「姫路の各連合自治会」に広がれば、3ヶ月に1回の夜廻りが月に1回になり、やがては観光の街「姫路」の「治安」の良さが「世界各地」から訪れるであろう「観光客」に安らぎを与えるのである。

 

 それが観光地としての姫路の知名度を、いやが応にも高めると思うのだ。

 もちろん経済効果を考えての事だ!

 

 姫路市もスローガンばかりではなく、もっと積極的に姫路警察署や防犯協会、それに「魚町・塩町近辺の町内会」に協力して毎月一回、金曜日か土曜日の午後7時か7時半頃から9時頃まで5人か10人ぐらいの「職員の中」から「ボランティア活動」をする人間を募り、夜廻りに参加させるべきである。

 

 市議会も沢山居るのであるから、一人位は参加して貰いたい。 

 机の上や議会で「安全で安心な街作り」を云うのは簡単な事なのだ。

 

 東北の震災に姫路市から復興支援に行かせるのも「市」としては良い事だが、肝心な「新しい街」として姫路がこの4月から生まれ変わるのに、その新しい街作りを目的とした「防犯パトロール」がもうひとつ盛り上がらないのは何故なのかと私は考えた。

 

 そこで姫路市への支援を訴えるのが先決だと思った。 

 「姫路の街へ行ったら暴力団らしき者も見ないよ」それに「街中を多くの人が防犯パトロールしとったで」となれば、軍師・官兵衛で街を訪れる観光客も口こみで姫路の治安の良さを宣伝してくれるのではないのだろうか・・・

 

 姫路と云う街は「山口組四代目」が出た町なので全国的に「ガラの悪い街」だと云うイメージがある。

 それだけに私は率先して「安全で安心な街作り」に参加して居るのである。

 

 私は、最初は皆に陰で笑われて居たそうである。

 今まで暴力団の組長として住民に威圧を掛けて来たのに、今度は「警察と一緒に暴力団を無くそう運動かいな・・・」と私の嫁がして居る店でも、客に酒の肴にされたとか・・・

 

 でも私はいくら人に笑われても、一旦男として「ヤル」と決めたら「とことんヤル」のである。

 この「暴力団追放運動」が気に入らなければ私に「直接文句」を云ってくれば良いのだ。

 

 何なら、拳銃で「バーン」と私の心臓を狙い、撃ってくれたら「歴史に名が残る」ので私はむしろそれを待って居るのである。

 但し、流れ弾に当たって関係の無い人が怪我でもしたら、私は「万死を以って報いる」位の覚悟をしなければならないので、至近距離まで来て「度胸」を決めて撃って欲しいのである。

 

 大きな事を云う様だが、私も死ぬまでに一度「親分・竹中正久」の暗殺された時の様な経験をしてみたいと思って居る。

 私は親分の様に「拳銃に向って行けるか」最後の自分の姿を死ぬ前に「是非」見ておきたいと云うのが本音である。

 

 それで暴力団が一人でも居なくなるなら、私の命など安いものだ。

 男と云うのは「美学」と云うものにこだわる「生き物」で、私は特にそんな種類の生き物なのだ。

 

 人間の値打ちが分かるのは「棺桶の蓋を閉める時」だと云われるが、私の持論も全く同じである。

 

 「人は一代・名は末代」と云う言葉を、私が建てた「五輪塔」の横に刻んで居るのだが、肝心な私が無様な死に方をすれば、末代まで「物笑いの種」になるであろう。

 

 暴力団組長時代、毎日が死線を潜る思いで生きて来た事もある私である。

 「組の為に」命も惜しまなかった程の男なのだ。

 

 こんな男が「国の為」に死ねるのなら男冥利に尽きると云うものである。

 老兵は死なず・・・「さむらいの心」と云うものは、そう云うものなのだ。

 

 きっと、そうあるべきなのだ。           癸巳弥生22日 竹垣 悟                      

兵庫県人として・自由民政党代表としての主張

「野村秋介」率いる・政治政党「風の会」にて「参議院議員選挙」に立候補した「横山やすし」とその横で「応援演説」の「練習」をする竹垣悟・・・これは、洒落でっせ~

 

 私は播州人である。

 この播州平野と云う所は、自然災害もなく長閑でのんびりした土地である。

 

 この、長閑な播州姫路で生まれ、激動する戦国時代を天下人・豊臣秀吉と共に天下を睨み続けた男が「黒田官兵衛孝高・のちの如水」である。

 私は政治家としても、武将としても「軍師・官兵衛」に胸躍る一人なのだ。

 

 政治とは「仁義」を通して「切り込む」所から始まる。

 「仁義」も切らずに、いきなり切り込むのは「辻斬り」ぐらいのものである。

 

 勢いに乗って「戦」ばかりをする人間は、昔の百姓は嫌がった。

 田は荒れるし、人心も殺伐となり、やがては「応仁の乱」に代表される「飢饉」が起き、人の肉まで喰う「修羅」や「畜生道」の世界になるのである。

 

 政治をすると云うのは「国民の生活」を「明るく」「楽しく」すると云う事なのだ。

 

 私は「兵庫県人」として、今の「井戸敏三知事」はよくやって居ると思う。

 

 何も、私に五仁會の「認可」を下ろしてくれた「恩義」で云うのではないが、今、兵庫県に「道州制」は必要なのか?

 北海道があり、九州があり、大阪府があり、東京都があって、それで良いのではないか。

 

 一人が何も、大きな権限を持たなくても良いのではないかと思うのだ。

 「各首長」が集まって、事の「是非」を決めて行くのが「民主主義」の「基本」だと私は思うのだが、如何なものだろうか・・・!

 

 私は、政治団体「自由民政党」の代表でもある。

 

 代表として前回の衆議院選挙の比例区は「日本維新の会」へ投票した。

 大阪維新の会代表の橋下徹市長へ、五仁會発会式の案内状を私が送った所、道理を尽くして「欠席」との返信をくれたからである。

 

 案内状を貰ったら「公」の立場に座る人間なら、どんな一市民にでも「返信用ハガキ」が入って居たら「礼儀」として「出欠の返信」ぐらいはするものだろう。

 

 私は、その人の人物を知ってみたいと思い「五仁會発会式」の「案内状」は800枚近く出した。

 無駄な金を遣った案内状もある。

 

 しかし、橋下徹とか、石倉三郎とか、その外、何人かの著名人が返信をくれた。

 偉そうにして、県は違うが、一県人である私に「仁義を通さず」何が道州制なのだ。

 政治家として筋が違うのではないか。

 

 山口組にも代紋を笠に着て威張るチンピラは居たが、今は他所の縄張りを荒す「ならず者」は居ないぞ。

 兵庫県の事は、兵庫県の有権者で決めれば良いのだ。

 

 「仁義」と云う言葉さえ知らない奴に私は、すごく腹を立てて居る。

 読売巨人軍からニューヨークヤンキースに行った人と同じ名字のお前に云って居るのだ。

 

 断っておくが私は何も「道州制」そのものを反対して居る訳ではない。

 

 そこで、レッスンスリー

 

 孔子の言葉として「夕べに道を聞く事を知れば朝に死すとも可なり」と云うのがある。

 

 黒田官兵衛ゆかりの姫路・広峰神社へ上がる途中に、古びたバスと廃屋のある「特攻隊」で死んだ少年兵の墓の横側に、この言葉が刻んであるのだ。

 

 人に物を尋ねられたら、答えくらいは出せ!

 分からないなら、分からないと返事くらいせよ。

 

 それが上に立つ者の心構えなのだ。      平成25年如月27日  竹垣 悟

 

指導者達へのバラード

「人生は邂逅に尽きる」と作家の高見順は云い、野村秋介も獄中18年の中で得た人生の妙味は「人との出逢いに尽きる」と云って居ります。

 

邂逅とはズバリ、人との出逢いなのです。

 

戦国時代の武将・大谷吉継が関が原の合戦後、戦いに敗れて自害する時、盟友の石田三成に「男と男の約束があるからには、現世とあの世の境目である六道の辻で待っていてくれ。先立ち、遅れの違いはあろうけれども、あの世でまた一緒になろうではないか」と云うような辞世の句を残しています。

 

人、それぞれの思いで辞世の句を残して居りますが、その中でも特に私の魂を揺さぶるのが田中河内介の「長らえて 変わらぬ月を 見るよりは 死して払わむ 世々の浮雲」と云う和歌(うた)です。

 

この人の壮絶な死にざまとダブり私の大和心に何かを強く訴えるのです。

 

時代に名を残す人は、それぞれが、その人なりの士道を貫徹して出処進退の時期を過らず、丁度時間となりました・・・と云うような死に際を迎えるものです。

「晩節を汚さず」と云うのが、日本人の潔ぎよい生き方とされるのが、サムライ魂の最たるものです。

 

命が惜しい・生きたいと云う執念に取り付かれての人生は、士道から少しはずれて、苦労ばなしのしんどい人生で終わるのが世の習いなのです。

 

私は、先人の生き様を見て反面教師にしたものもあれば、学ばなければならない事を素直に「ハイ」と云う心で応えて、今日まで生きて来ました。

 

私が「こうだから、人もこうあれ」と指導者顔(づら)して云う気は更々ありませんが、でもせめて学校に行ってるのなら、教師の云う事を聞くのが生徒の「本分」ではないのかと、つい老婆心ながら云ってしまうのです。

 

何でも自分の器量で物を云うのは簡単だが、教育の現場では希に、生徒が教師にタメ口を叩き、話しだけを聞くと、どちらが生徒で教師だか解からない時もあるそうだ。

 

これは、教師の責任ではなく、家庭での親の躾(しつけ) が悪いのだ。

学校に送り出す前に、親として子に対する人間教育をするのが、親としての責務なのである。

 

この世の中は上手くしたもので、人間社会では動物全てが、アメとムチによって飼い馴らされて来たし、そうする事によってダーウィンの進化論が生まれ、そんな事もあり人類としての進歩と発展があったのである。

 

アメもくれないのに動物が芸をする訳でもないし、またムチが無かったら、これも動物は動かないのである。

人間が動物である限り「アメ」と「ムチ」は必要なのである。

 

私が思うに体罰とは、自分が痛みを伴なわずに相手にだけ痛みを与えるから体罰と云う言葉が出るのである。

 

私が指導者として怒る時は、相手に頭を出させ、私が拳固(げんこつ)で一発「喝」と発し頭を殴るのである。

 

そして「お前のアタマ、石頭やのう。俺の手が痛いわ」と云って痛み分けのような型ちで終わるのである。

そしたら、私が怒る時と云うのは相手に伝わり、私が「喝」と云うと自然にアタマを私の前に出してくるのである。

 

そこで又、ガツーンと一発拳固(げんこつ)が鳴るのである。

それが私が悟った「情のある怒り方」なのだ。

 

私の母は、よく私に「心を鬼にして」と云う言葉を遣っていた。

そして百獣の王、ライオン(獅子)は可愛い我が子を谷底に落とし、そこから這い上がって来る子だけを百獣の王・ライオンとして認めたと云って居りました。

 

今日本の国がやらなければならない教育は、駄目な人間を作ることではないのです。

精神的にも肉体的にも、世界で通用する人材を育てて行かなければならないのです。

 

その重要課題を任されている教育委員会が腰砕けで、自分の信念もなく「是非」を問う場面に出ていたら、私に云わせれば、まるで漫画の世界なのです。

 

自分の子供も満足に一人前に社会に通用する「人格と教養」を身につけさせる事も出来ず、なぜ他人様の大事な子供の教育が出来るのか、私は理解に苦しむ。

 

むかし、教師と云えば「聖職」であった。

これに「医者」と「坊主」を加えて、三大聖職と云って居た頃もあるのだ。

だから「教師」には、もっと自覚を持って生徒に接してもらいたいのである。

 

私の恩師の一人に神村正と云う教師が居る。

偶然にも私はこの教師に、八木小学校・白鷺中学校とで計2回教えを受けた。

 

まだ健在で、この先生と同窓会で会って話したり、手紙を貰ったりして先生が「学校教育に見切りを付けた」意味が解かった。

 

この先生の綽名(あだな)は「鬼」で、私の小学3・4年生の時の担任で皆よく怒られていた。

熱血先生だったのである。

 

しかし、この先生のお陰で私達のクラスにイジメっ子は居らず、生徒の鉾先(ほこさき)は、この先生に向かって居たからである。

 

この先生が教師を辞めたのは「少し熱のある教育をすると直ぐ親が教育委員会に云って、教師としての教育方針を撤回させる」 「当たり触らずの教育なんて僕には出来ないから、アホらしなって辞めた」と云って居りました。

 

今、柔道界の指導者も、こんな感じではないかと私は思います。

角力(すもう)の世界でも体罰を禁止にしてから、日本人力士が横綱になれない。

体罰を嫌がる人間が、なぜ角力(すもう)や柔道の厳しい体力への限界へ、挑戦が出来ようか・・・

 

それはプロ野球も、他のスポーツも皆同じである。

私は、星野仙一の熱血漢が好きで、江夏豊の孤高のサムライ魂が好きなのです。

 

江夏豊と同じで新撰組では土方歳三の生き様が特に好きで、夢中になりました。

司馬遼太郎の「燃えよ剣」をテレビで栗塚旭が演じてから新撰組のファンになったのです。 

 

何年か前、埼玉の西川口にあるソープランドへ連れて行って貰った時、色白で藤あや子のような美人が居りました。

なぜか暗く、影のある女でした。

 

私はこの女に「出身地はどこや?」と聞いたのです。

そしたら「函館」だと云うのです。

 

函館には五稜郭があり、土方歳三記念館があるのです。

そして「北海道の端から端まで行くのは遠いよ」と暗い表情と声で云い「土方歳三は良い男よ」と私の心にズシリと響く声で云うのです。

 

私は、この言葉で「土方歳三より良い男で居たい」と云う性来の負けず嫌いが頭をもたげ、アッチの方は結局、役立たずの枯れおやじに戻りました。

負け惜しみで云うのではありませんが「酒も飲まないのにアホな事も出来んわ」と思ったのです。

 

そして結局、話しばかりして、関東まで行って「土方歳三」に挑戦しただけで、肝心な女に挑戦する時間も過ぎ「私の或る意味」男としての挑戦は果たせなかったのです。

 

「立ちが悪るなったら、バイアグラを使わなあかんで」と、人は云ってくれたのですが、これは鳩友・落合文夫から「バイアグラを使って脳梗塞になって困っちゃったから、使っちゃいけないよ」と云われていたので、やっぱり春が来るまで待つ事にしました。

 

あれだけ飲んでいた酒も飲まないのに、なぜバイアグラを飲む?

わしは毎日一万歩も歩く、こう見えても健康ばりばりオタクなんやで~

そやろ、わしは、こんな男なんや・・・  

 

話しを戻す。

今の時代の教育の原点(モデル)は、新田次郎の「教職の碑」にあると私は思います。

 

「士道貫徹」も教育者が本来持つべき教訓で、江戸時代の中期以降までは、一部の寺子屋を除いて武士(さむらい)しか教育を受けてなかったし、もちろん教育者も立派な人格者だったのです。

 

明治天皇の教育係であった田中河内介の教えが「士道貫徹」なのです。

近代ニッポンの象徴である明治天皇も、この田中河内介に教えられ「士道貫徹」と云う大和心は理解して居たのです。

 

サムライ魂の無い奴が、いくら教えても生徒は反発するだけである。

先ず、おのれの姿勢を正して教育する。

 

これが私の指導者としての結論です。      平成25年睦月15日  竹垣 悟

士道貫徹と云う言葉について

私は若い頃新撰組に夢中になって、新撰組に関する本を濫読したものです。

 

応接間の本棚には新撰組コーナーがあり、家の下駄箱の上には、局中法度を額に入れて置いてあるくらいです。

 

その局中法度のひとつである「士道に背き間敷き事」と云う言葉が好きで、自分でその字を書いてみたいと思い習字を習い始めたのが3年余り前です・・・

 

習い始めて分かったのは、習字と云うのは、集中力を養う精神的な世界で、先生から教えられたのは、極めて行けば書の道につながると云う事でした。

 

1月11日に姫路市美術展の出品募集があり、受付開始と同時に私が書いた「士道貫徹」と云う作品を提出しました。

 

士道貫徹と云うのは、公家侍であった私の高祖父・田中河内介の遺訓でもあるのです。

田中河内介と云う人は、明治天皇の養育係を務めたこともある明治維新の魁となって散った人です。

 

河内介が寺田屋事件で悲運に斃れた時、西郷隆盛は、これで維新が「3年遅れた」と嘆いたそうです。

山本有三著の「同志の人々」とか、一坂太郎著の「ひょうご幕末維新列伝」にも河内介の事が書かれています。

 

河内介の研究を始めてから、私の人生観も大きく変わりました。

河内介の墓を、我々子孫が住む近くに建てようと心に決めてから、小豆島の福田港近くの雲海寺境内にある「墓の土」を骨壷に納め、私が「先祖代々の墓」と揮毫(きごう)して姫路の中部霊園に於いて、墓の「開眼法要」を昨年8月8日に行いました。

 

これが無念の内に、冥土に旅立ったと云われる「田中河内介」の血が流れる私の心の中に残る、先祖代々に対する畏敬と親愛の情なのです。

 

その頃なぜか、本当に不思議なくらい「汝は、なぜ義侠心に富んだ夢を見ないのか・・・」と云うシェークスピアの言葉が、文学青年のように私の脳裏をよぎったのです。

西洋文学の苦手な私には、シェークスピアの名前さえ違和感を覚える事もあるのにです。

 

浪花節的な男だから尚更です。

 

義と云う字は、それ程私の心に深く刻まれた字なのです。

竹中正久の戒名が義照院と云うのも親分と私の浅からぬ縁なのでしょう・・・

 

そんな私も一昨年(平成23年)に華甲(還暦)を迎えました。

華甲を迎えると、赤いチャンチャンコを着て、年寄り臭さを捨て、赤ん坊に戻るのが人生50年と云われた時代に仏の道が諭した説法で、やがて人の世の習いになったとか・・・

 

だから私は、華甲を迎えたのを機に(恥ずかしながら云えば)誕生日のその日「赤いチャンチャンコを着ず」敢て背中に彫ってある「一匹竜」の「目玉と背びれ」を「紅い朱色」に入れ直したのです。

 

彫師は「泉州彫信」こと坂本志信で、古くからの私の弟子のひとりです。

もちろん五仁會同志として名を連ね、私とは 生涯を共にすると誓い合った「信用」出来る男で、私にとっては「男の中の男」なのです。

 

入れ墨は大体「針地獄」と云われるのですが、それを8時間掛けて受けました。

これが華甲を迎えた私の心意気だとバカな錯覚をしたものです。

 

情けない話しなので今だからこそ云えますが、それから半年位は体がガタガタで自分ながらアホやなぁ、とつくづく思ったものです。

その時改めて、入れ墨と断指は、私の生涯で一番の後悔だったと悟ったのです。

 

道に迷った小雀が、このブログを見ていたら「俺の後悔を反面教師にして、これからは道にはぐれず、真っ直ぐ自分の信じる道をゆっくり歩いて行きなはれよ・・・」 と云ってやりたいね。

 

そう云えば、竹中正久は、「その指、寝とう間にねずみにかじられたんかい」と云い、姐さんの中山きよみは、「男気で落とした指も、下手を打って落とした指も、うちらから見たらわからへんもんね・・・」と云って「そんな事これからは止めときよ」と親が子に諭すように訥々と話してくれました。

 

親分や姐さんに教えられた士道と云うものを私なりに貫徹して、人生の終章(エピローグ)に備えたいと思います。                   合掌                                  

入れ墨の時の小咄をひとつ・・・・・春分の日(3月21日)朝から彫り始めたのですが、夕食を堀尾優(日本鳩レース協会々長)の家族と私の家族が泉州・堺の老舗の料亭で一緒にする事になっていたので(まだ入れ墨も途中だったので)彫信も連れて行きました。

 

食事が終わってから、又彫り始めたので結局仕上がったのは日付も変わり夜中の1時頃でした。

雨の中で、それも車の中で嫁や娘それに娘の子まで5時間も待たせたものですから、娘の怒るまいことか・・・

 

大雨と春の突風が吹く中、結局家へと着いたのは午前4時前だったでしょうか・・・

私はもうクタクタで娘にはブリブリ云われるし、それから風呂に入って彫った墨を洗い流し、焼酎をタオルにつけて消毒して寝ました。

 

これだけの苦痛と時間を掛けたのですから単純な私としては、自分ながら男やなぁと錯覚したのでした。                                  

華甲を迎えた私への嬉しい便りをひとつ・・・・・寒い日が続きます。

 

先日のお葉書で還暦との事ですので、明治の元勲・井上馨の還暦時の面白い和歌を送ります。

写真は若干異同がありますが、自筆のものです。

 

「今日よりは もとの赤子に  戻りけり みなちゃんごめん 駄々をこねても」   

また、これは聞いた話ですが、お好み焼きチボウの社長が、美弥刑務所から出所する人を雇用、更生に尽力しているそうです。  参考になれば。 

 

高杉晋作記念館の館長で作家の一坂太郎より、でした。(うれしかったぜ、先生)                    

 写真掲載についての説明

 

 七転八倒する思いで、一坂太郎からメールで送ってもらった明治の元勲・井上馨の還暦時の和歌を転写した。

 

 何をするにも、慣れないことをするのは努力が要ると、身を以って知る思いだ。

 人には、この見えない努力が必要だと云うが、見えない努力をするのは本当に馬力が要るものである。

 

 派手な表舞台も良いが、裏舞台を支える「裏方」の苦労は、表に出る人間より数倍の忍耐と体力、そして努力が要るとつくづく思うのだ。

 裏方の苦労こそ、知ってやるべきものであり、裏方の苦労を知らずして、物事の成功は得られないのである。

 

 失敗とは些細な事を軽視する悪い習慣の為であると断じて云う。

 これが「竹垣悟」の云うところの「経験論」である。

社会貢献に目覚めたきっかけ・・・・・

 

私もむかしは、体を張ってお金を儲けて来た事があるので金の有難味はよくわかります。

身銭を切るとは、身を切る事だとよくわかります。

 

ボランティア活動とはまさしくこんな事だと思います。

お好み焼き屋・千房の社長が美弥刑務所の出所者を更生させようとする姿を私もテレビで見ました。

 

それが五仁會設立へのヒントにつながったのも事実です。

それと竹内靖人(日本鳩レース協会近畿ブロック連盟長)に付いて行って、門真市自治基本条例(案)の会議を見学に行ったその帰り、竹内靖人が「私もむかしは野村秋介門下で右翼活動をしていたんですよ。しかし5年位前からもっと目に見える形で社会に貢献したいと思いボランティアでこんな事をして居るんですよ」と聞いた時、私は妙に感動しました。

 

そして鳩飼いも捨てたものじゃないと思い、私の五仁會設立へのファイトに火が点いたのです。

 

あとひとつは神戸新聞2011年6月5日付の朝刊(地球人間模様)に犯罪者更生支援NGO代表「その男前科53犯・自らの経験を生かし仲間10人と再出発」と云う記事を目にした時です。

 

社会貢献活動と云うのは、将来の若者に対しての必須条件のひとつであり、シルバー世代にとっても定年後に生き甲斐を見付けたいと云う希望の掛け橋となるのではと考え、私がその良き手本になればとの思いで設立したのです。平成25年睦月12日 竹垣 悟                           

 

私の経歴で国家社会に貢献できること

人の夢と書いて儚いと読みますが、この漢字が作られた時代はそうだったと思います。

 

その頃と比べると科学が発達し、文明も数段進歩しました。

今では人が心に想うことは、すべて実現して来たのではと思います。

 

私は、幡随院長兵衛という侠客は、伝説でしか知りません。

その伝説の人になってみたいと、ずっとむかし夢の中で想ったこともあります。

 

幡随院の生き様は、まさしくおとこ気の極みだったようです。

でも私は、幡随院と違って男盛りも過ぎ、死に様を考える年になりました。

 

そこで、あの世へ旅立つ土産話として、五仁會を設立したのです。

私の経歴で国家社会に貢献できる事をと考えた結果が「暴力団員と犯罪者の自立更生支援」です。

 

矯正施設や更生保護の現場において指導員の数が絶対的に少ないのが現状であり、犯罪者に対する心のケア不足は深刻化の一途を辿ります。

また、暴力団員というだけで更生に力を貸そうとする人が極端に少なくなるというのも紛れもない事実です。

 

暴力団が社会通念からいうと「悪」であるというのは、当の暴力団員も認識しており、今やアメリカのオバマ大統領までもが認定するにいたっております。

(昔は必要悪とも呼ばれましたが……)

 

だからこそ、肝心な暴力団員の話にじっくり耳を傾け、更生への意欲をかたちに表してやるのも我々のつとめではないでしょうか……。

 

暴力団組織も一皮むけて、弱きを助け強きを挫くという本来の仁侠精神に立ち返れば、侠客と呼ばれ、必ず社会に有益な人間を輩出できると私は信じます。

 

そのために誰かが良き手本となり、身を捨てて仁をなさなければなりません。

義理と人情がまかり通る世の中を是非再生したいと念じます。

 

こんな我々の活動を通じて、昭和の高度成長期のような、人の心が最も熱かった時代を取り戻せればと思います。

                       平成24年晩夏  竹垣 悟 

 

 

発会式にご臨席賜った皆さまへ

 

我々には、夢を実現させる義務があります。

上の世代から引き継いだ悠久の大義という約束事もあります。

 

私は、相手がたとえ乞食であろうと、約束は必ず守れと親だった竹中正久に教えられました。

 

極端な話、破ると心が痛いという男気の価値観を持てとも言われました。

そういう思いの中で、この度暴力団員と犯罪者の自立更生支援というテーマで、発会式を執り行えたということは、ある意味で時代の要求ではなかったかと思うのであります。

 

しかしながら、肝心な姫路市に暴力団排除条例がないのは市長・石見利勝の従兄弟として、過去私が歩んできた道に原因があるのではないかと悔いいるばかりです。

 

先ずは、この条例成立を目指すために本業でお金を稼ぎ、そのお金を五仁會の活動資金に遺いたいと思います。

バブル時代の前のような、義理と人情がまかり通る時代を取り戻すために、誰かが勇気を持って先陣を切らなくてはなりません。

 

元暴力団の組長だった私が言うのも変ですが、暴力団が恐かったら何も言いません。

尻尾を下げ、それこそ上目遣いでキャンと一声泣けばよいからです。

 

そんな茶番は、そろそろ幕引きにしなければなりません。

その役目が私であり、あなただと思います。

 

発会式の写真を同封し、尚一層、賛同の輪を広げたいと思います。

お金は要りません。そんなお金は応援したい団体への義援金に廻してください。

 

我々五仁會には、心ある人が集まればいいのです。

貧しくても男気があって、人の心が熱かった昭和の時代に戻せば、日本国の将来も捨てたものじゃないと思います。

                2012年5月15日 五仁會代表 竹垣 悟