荒らぶる獅子  コミック竹書房-TAKESHOBO-

借りを作らず

男に生きに死んだ

       我が親分 義と侠の人

                   元竹中組若頭補佐・竹垣 悟

   

 私の五仁會設立の理念は、竹中正久と云う一人の男との出逢いが原点であり、

竹中正久の原点は、田岡一雄が掲げた山口組綱領であったであろうと思うのです。


 私が竹中正久から教えられた男の生き様とは、一体どう云うものだったのかを

しっとりとした情感の中で、私なりに感受性の鋭さを抑えながら綴ってみました。


 現役当時に綴ったものなので多少、現在の私とずれがあるかもしれません。

 若気の至りで筆を進めて行った面もあると思います。

 今思うと、ここはこんな表現が良かったかなと考えるのですが、拙い面も含めてその当時私が感じたまま綴ったものを転載させて頂きます。


 昭和時代には、こんなやくざ馬鹿も居たと云う事を知って頂けたら光栄に存じます。

 

 バンブーコミックス(竹書房) 実録山口組四代目・竹中正久

『荒らぶる獅子』  (第1巻2001年3月~第7巻2005年8月)

 に私が特別寄稿したものを掲載します。 

 第一章 追憶

 (第2巻2001年11月27日初版発行)

 私ごとき若輩者に、伝統ある山口組の歴史の一ページを飾る四代目竹中正久親分の思い出話を語れといわれても、戸惑うばかりで、さて、何から話しを進めていってよいやら、七転八倒する思いである。

  

 思い起こせば私が親分と初めて逢ったのは、昭和47年(1972年)2月6日、竹中組定例会の席上である。

 

 この時、初めて逢ったにもかかわらず、明くる日、竹中組本部事務所へ行くと、私の名前を覚えていてくれ「オオッ、悟、頑張れよ」と一言、心強い言葉を掛けてくれたのが今でも強く印象に残っている。

 

 こんな事をいうと,世間様に叱られるかもしれないが、私と親分とはよほど相性が合ったのか、他の組員と比べ、特に目を掛けて貰ったように思う。その分、義理事にもよくついて行ったが・・・ たしか一番最初、一泊どまりで義理事について行ったのは、吉川勇次組長の通夜及び葬儀だったように思う。

 

 この時は奈良に行ったのだが、親分が気を利かせ「他の者は遊びに行って来い」といって、私と親分だけが旅館に残り二人同じ部屋で、布団を並べて寝た。明くる日起きて、私が眠そうな顔で「おはようございます」と挨拶すると親分は「オオッ、そやけどお前のイビキで、いっこも寝られへんかったわ」との返事が返ってきた。これも親分独特のシャレで、実際イビキをかくのは親分である。

 ふつう親分なら、旅先で、女遊びの一つや、二つしてもよいはずなのに、親分だけは、巷間言われているように、とんと女にだけは無頓着だったように思う。

 女とバカ話しするくらいなら、若手を一人前のやくざに育てていった方がよいと、考えていた節もある。

 

 実際我々の顔を見れば、警察に捕まった時、「もしも」とか、何かやったらの「たら」の話はするなとか、自分の想像で物をいうな等、とにかく、やくざごとに関する話ばっかりだったように思う。

 事実、組員がパクられたら顧問弁護士に、その人間が、どんな事を取調べで言っているのか、調書まで上げさせていたぐらいで、私等いくら現行犯でパクられても「酒を飲んで一切おぼえてない」としかいいようがなく、いつも結果的には否認である。

 

 そういう面では宗教の信者と同じで、私等完全な竹中教の信者で、聞こえは悪いがずいぶん親分に洗脳されたものである。

 

 実際やくざをしている者は、根は単純で、素直な人間が多いように思う。

 やくざから、素直さ、単純さを取ったら、行動力が鈍るし、損得勘定ばかりが先に立ち、本来のやくざ気質から外れるのも事実である。

 根は“単純で素直”これが仁侠に生きる男の気質であり、侠道へとつながっていくのではないだろうか。

 

 時代が変わっても、人の心まで変わるのは人として淋しいし、やくざからロマンを取れば、ただのギャング的な考えになってしまうようにも思う。

 夢があるから私利私欲を捨て長い懲役(刑務所での服役)にも辛抱というボウに縋って耐えられるのである。

 

 懲役といえば、昭和53年(1978年)4月に親分が神戸刑務所に新入で入ってきた時、偶然にも私は運動中で、親分の姿を見つけるや否や、直立不動で挨拶をしたら「こんなところで挨拶なんかせんでもええ」といい、付き添いの刑務官に、たしなめられた事もある。

 いま考えると、相手が親分だったから保安に連行される事もなく、また懲罰にもならなかったのだと思う。

 

 以後親分とは、こっそり手紙を書き、教育を受けに行く者にことづけしたり、月一回の宗教教育で逢ったりして連絡を取り合ったものである。

 

 刑務所の中での思い出といえば運動会の時私は百足(ムカデ)競争に出たのだが、少しでも親分を身近に見たいと思い、百足の先頭で走る事にした。

 早くゴールインするには少しでもライン際近くを走らなければならないのに、あろう事かそのラインを離れ親分のいる観客席の方へ皆を引っ張っていこうとするものだから、もちろん無理も出るし、親分の目の前に来たタイミングを見計らって、手を振ったが最後、全員ひっくり返ってすり傷だらけである。

 そのお陰で私は、親分の近くに長くおれたのでよかったが、これこそ私にとっては、 “災い転じて福となす”の例えどおりである。

 一緒に走っていた人こそ、ハタ迷惑で、その人達には悪いことをしたが……。

 

 やくざとは不思議な生き物で、私等親分から用事を言いつけられるのが、何よりもの楽しみだったし、また逆に、私が側にいながら他の者に用事を言いつけられるのを聞くと、私では器量不足かなと考え、その物事に対して私なりに所作を考えたりもした。

 

 いま思えば、如何にして一人前のやくざとして、親分に認めてもらえるか、私なりに切磋琢磨していたのだと思う。

 それだけ親分の懐が深かったし、当時の私は、趣味は竹中正久と考えていたからである。

 親分の、やくざとしての哲学は、若手を伸ばして行ってこそ、その組の将来が開けるという考えだったので、竹中組の若手組員は、だれかれによらずみな、目をかけられ可愛がられたはずである。

 

 そういう親分の若手至上主義の一環として当時、28歳だった私に白羽の矢が立ち、竹中正、平尾光(姫路事件で懲役20年服役)両人推薦のもと、私のような若輩者に親分から盃が下ろされたわけである。

 

 私自身、竹中組若頭、坂本義一の率いる坂本会の若頭を4年間務めたとはいえ、、何分やくざとしての経験不足はどうにも補いがたく、また金もなかったのでちゅうちょしたのであるが、竹中正の「お前やったら兄貴の若い衆になったらもっと若い衆を連れ集め、率いられるだろう」との言葉と、持ち前の当たって砕けろの精神で有難く盃を受けたわけである。

 

 当時、竹中組は盃が終わった日に、その日盃を下ろされた者は親分と一緒に飲み屋街へ繰り出す習慣になっていたので、当日も、例にもれず、飲み屋街へと繰り出した。

 ある店でホステスの一人が無精ヒゲを生やした親分を見て、

「親分きょうはヒゲがのびてますね」

 といったら、

「このヒゲでお前が怪我したんかい、ヒゲが伸びとんのは俺の勝手や」

 とユーモアたっぷりに話していたのが、ついきのうの事のように感じられる。

 とにかく女に対しては、妙なところで照れるような面があった。

 

 飲み屋がらみの話といえばある日のこと、親分が懇意にしていた、播州最大のパチンコ屋のオーナーと事務所近くの路上でバタッと逢ったとき、私に「親分事務所におるんか?」と聞くので「おる」と答えると、その社長は、「今からルンビニーにおるから飲みにきいひんか、聞いてくれるか」というので、駆け足で事務所に行き、親分にその旨伝えると「お前いま何時や!! 10時半やど!! 考えてみいッ。今からやったら一軒行ってしまいや。そないなったら俺がどっこも連れていけへんやろ。ほなおごったった言われるやろ。そんなもんけったくそ悪いがい。行かへん」との返事が返って来た。

 

 当時、クラブと名のつく店は、11時半か遅くても12時までしか営業していなかったので、こんな返事が返って来たのである。

 相手が誰であろうと、人に借りを作るのが嫌いな親分らしい言葉である。

 

 人に借りを作る事が、義理や恩につながるからである。私等さすが親分「偉いなぁ」と思ったものである。

 もちろん、みかじめ料等親分が懐に入れるわけでもなく、みな若い者に与えていた。

 こういう面ひとつ取っても、日本一になった親分と、私等、うだつのあがらぬ者との違いである。

 

 何処までいっても、誰にも負い目を作らない親分でもあった。

 ある日、私が親分に金を借りに行くと「俺、お前の金預かっとうへんど」といわれ、そのまま帰ったのだが、そのあと直ぐポケットベルが鳴り本部へ電話すると、当番の者が「親分呼んどうでぇ」というので直ぐ本部へ行くと、

「これでええんか」

 といって200万円渡してくれた。

 こんなところにも親分なりの「意見」が入っていたように思う。

 

 察するに、「世の中ふたつ返事で金を貸してくれるほど、甘くないぞ」

 という事を、あえて私に教えるための所作だったように思う。

 打てば響く太鼓は叩くが、打っても響かぬ太鼓は叩かぬ人であったようにも思う。

 この後、世にいう姫路戦争と呼ばれる事件が勃発した。

 

 昭和55年5月13日、夕方6時過ぎ、高山一夫、山下道夫、山田一等3名の男に、木下会会長高山雅裕以下5名が襲撃された事件である。

 

 この時、私は、前日より親分について千葉県鴨川市で執り行われた双愛会会長の葬儀に行った帰りだった。

 帰路の車中、事件が発生したので、竹中組組員は大挙して姫路駅に親分を出迎えた。

 

 当然、事件の内容は報らされ、誰が殺ったかも報らされたはずである。

 もちろん駅には車が着けられたのだが、親分はその車に乗ることもなく「新幹線で座りっぱなしで肩が凝るんや」といい、歩いて帰る事を選んだのである。

 

 こんな親分の豪放磊落さが、1.26事件を引き起こしたといっても過言ではないだろう。

 この事件の9ヶ月後、私は5年余りの拘禁生活を余儀なくされたが、私が拘置所にいる間も手紙をくれたり、面会に来てくれたりでとにかく、若い者に対する思いやり、情の深さには格別の思いがあった人である。

 

 一度、4代目問題を取り上げ、手紙を出したところ、返事には、

 「俺の考えでは4代目には山健にやってもらう積もりでした

 こんな結果になるとは夢にも思って居りません。

 娑婆に居る人も皆んな困っていると思いますが、一周忌までは今のままでいくと思います。

 又、週刊誌が、いろいろ想像して書くと思いますが、俺は今の所、4代目になる気は、有りません。

 お前達が思っているような、そんなあまいものではないし、又俺にはそんな器量は

ありません。

 俺のような田舎者が、4代目という名前が出るだけで満足です」

 と書いてあった。

 

 当時の情勢からすると、親分自体、4代目に手が届く位置にあったのだから、4代目襲名にもっと色気を持ってもよさそうなものだが、この手紙でも判るように、そういう雰囲気はみじんも出さなかった。

 こと、4代目問題に関しては、皆目、色気がなかったようである。

 

 私を含めて竹中組組員である限り全員、どんな事をしてでも親分に4代目を取ってもらいたかったはずである。

 でも、閉ざされた刑務所の中で、親分が4代目に就任したと聞いた時は私自身、天にも昇るような気持ちになったものである。

 

 その喜びも束の間、昭和60年(1985年)1月26日に起きた4代目襲撃、翌27日、死亡との報に接し、私自身、気が狂いそうで、それから8ヶ月余り、昼夜独居生活である。

 その時、詠んだ一首が「凶弾に 倒れし人の悲しみを 我がものとせむ この道をゆく」である。

 この時は、神も仏もこの世にないのだろうかと思うほど、なにもかも嫌になり、全てが信じられなくなった。

 

 親分の訃報に接してより49日間、主食は一切断ち、副食だけで過ごしたので8ヶ月余りの間に私自身、18キロ痩せた。

 親分の訃報が、私の今までの人生の中で一番悲しい出来事であり、辛い事でもあった。

 荒ぶる獅子の如く、気性は激しかったが豪放磊落にして、人情の機微が分かる義と侠の人であった。

 

 私が、この世に生を受けて竹中正久という偉大な親分と、多少なりとも時間を共有出来た事は、何物にも代えがたい財産であり、誇りだと思っている。

 私自身、紆余曲折しながら現在に至っているが、親分に教えられた男の生き様を、もう一度じっくり掘り起こし、今度の道しるべにしていきたいと思っている。

 

“義照院釈顯正”と呼び名は変わっても、竹中正久という親分は、永遠に私の心の中に生き続けている。

 男で生き、男で死にたいと生前語っていたように、「侠」で死んだ。

 散る桜 残る桜も 散る桜……                 合掌 

 第二章 教訓

 私が親分の身近に仕え、教えられた事とか肌で感じた事などを私なりに解釈して,箇条書にしてみたいと思います。

 先ず親分の口癖といえば「人間辛抱せなあかん」を思い出す。

 ここで親分のいう辛抱とは何事に対しても「自分を押さえよ」「自分に打ち克て」という意味である。

 その他、解りやすく「若者心得19カ条」として綴ってみたいと思う。

 

 その19カ条を読んで頂ければ当時の我々若い者に対する親分の情熱と、やくざに対する姿勢が幾分かでも伝わると確信する次第である……。

 

 

若者心得19カ条

1、組員相互の信頼感と助け合いを美徳とし、団結力こそ、己の力を最大限に活用するすべ 

  と心得るべし。

1、若い者、目下の者には愛情をもって接し、誉める時には誉め、怒る時には人前で怒ず、

  こっそり呼び、情のある怒り方をせよ。

1、組織の秘密を外部に洩らすな!

  また、外部の者に上層部を批判するような事は言うな。もしいいたい事があれば己の姿

  勢を正し、本人に直接諫言せよ。

1、組員であるかぎり、同じ組員に後ろ指をさされぬよう決められた事は最低限厳守せよ。

1、やくざは組織に対して、自分の躰で貢献するか、金で貢献するか、ふたつにひとつであ

  る。この道理が分からぬ者は即刻堅気になれ!

1、やくざは金がすべてではないが、ある一面人を生かすも殺すも金次第である。

  金の重みを考え、銭金(ゼニカネ)で人に迷惑をかけるな。

1、やくざは知恵や細工でどうなるものでもない。

  最後に物をいうのは自分の躰を賭けた一か八かのやけくその精神である。

  なにくその精神である。これを忘れるな。

1、やくざとして伸びていく男は、やせ我慢の出来る男である。

  やくざとしてのやせ我慢。この意味を理解してやくざの道に励め。

1、やられたらやり返せ。少々の事で妥協するな。

1、やくざは結果が全てである。その結果を恐れず、先ずは実行力あるのみ。

1、一時の恥に心を止め、くよくよするな。

  やくざとは前進あるのみである。

1、いざという時に備え、たえず緊張感を持ち、事に対処すること。

1、仁義とは、先ず相手を立て、自分を立ててもらうことだと知るべし。

1、礼儀作法こそ、男を磨く砥石(トイシ)と思え。

1、義理に生き、義理に死ぬことこそ、男の本懐である。義理の重さを肝に銘じよ。

1、一歩踏み込む度に義理や恩を感じる者と、何歩歩いても無造作に通り過ぎていく者との

  違いが将来において器量の違いとなる。この道理を忘れるな。

1、人の好意や親切には裏の骨折りがある。

  物事が終われば簡単な物事のように思うが、裏の骨折りこそ大変な苦労だと思え。

1、何事にも折目ケジメをつけよ。

  折目ケジメがその人間の信用となり、

  決断力・実行力につながると知れ。

1、やくざとは人気稼業である。

  やくざとしての人気を得るには堅気の人に好かれることである。

  暴力団といわれぬように努力せよ!!

 

 以上であるが、これら19カ条の根本にあるのは、雀銑(サイセン)の教えである六然(リクゼン)から来ているのではないだろうかと最近ふと考える時がある。

 一度だけ親分が陽明学の本を読んでいるのを見て、親分が読み終わったあと、その本を読むと、六然がかいてある所だけページの端が折ってあったからである。

 ちなみに六然とは、

1、自処超然(チョウゼン)

  自分自身に関しては、いっこう物に囚(トラ)われないようにする。

2、処人藹然(アイゼン)

  人に接して、相手を楽しませ心地よくさせる。

3、有事斬然(ザンゼン)

  事あるときは、ぐずぐずしないで活発にやる。

4、無事澄然(チョウゼン)

  事なきときは、水のように澄んだ気でおる。

5、得意澹然(タンゼン)

  得意なときは、淡々とあっさりしておる。

6、失意泰然(タイゼン)

  失意のときは、泰然自若としておる。


 ……哲学的なことをいう気はさらさらないが、やくざも哲学を少しでもかじっている方が、人間としての幅が広がるような気がしないでもない。

 これらの中には、多少なりとも私自身の思いが入っている部分もあると思うが、そこは読者諸兄の寛大なる気持ちに免じて、御容赦願いたい。


 もののついでといっては失礼だが、私自身の思いで一言つけ加えさせて頂くなら、男気とは、「この物事をすれば損をするが、あえてその損を承知ですることだ」と思うのだが、こんな侠気に富んだ男は最近めっきり少なくなったように感じられる。

 これも時代の流れといってしまえばそれまでだが……。


 今こうして4代目親分の生き様を考えてみると、人から親分といわれる人にとって一番大切な資質は何かと聞かれたら、私は躊躇(チュウチョ)なく身を挺してでも若い者をかばえることと答えたい。 

 時として若い者は、親分のため、組織のために命をかけ、躰を張るのだから、親分もまた若い者に対して「うちの親分は、何があっても自分を守ってくれる」との絶対的信頼感を植えつける必要があるからである。


 最後に親分から私宛に来た手紙の中から、今でも特に印象に残っている一節を抜粋して終わりにしたいと思う。

「われわれ頭の悪い人間は頭を打ちながらひとつひとつ覚えて一人前になっていくのだと思うのです……」

 うーん。

 なるほど、納得です。

 荒ぶる獅子の教えよ、永遠たれ……!!

 

指導者の系譜

(第5巻2004年1月20日初版発行より)

語録「竹中正久」と

山岡荘八著「徳川家康」との奇縁

                元竹中組若頭補佐 義竜会々長 竹垣 悟

 

 私が山岡荘八著「徳川家康」を読んで吃驚仰天(ビックリギョウテン)したのは、余りにも我が親分、竹中正久が、この本に出てくる徳川家康の生きざまやエピソードに傾倒した生き方をしていたからである。

 天下の徳川家康を範にしていたとは意外だろうが、ある意味、天下を取った親分として納得できる話である。


 「徳川家康」は長く親分の愛読書だった。

 親分自身、サンデー毎日の取材班に座右銘を問われて「忍耐やな」と答え「やっぱりヤクザの世界では辛抱した子が偉うなってるわな」と答えている。

 これこそが徳川家康の座右銘である「堪忍」の親分流の解釈であり、同義語に他ならないのである。


 古今の英雄は決まって誰かを範に置いたそうだが、徳川家康とて例外なく、源頼朝を崇敬し、敬慕したようである。

 親分は、その徳川家康を範とし、手本としたのである。


 もちろん親分は、山口組の総師である田岡一雄組長に心酔し、田岡組長を範にしたのも事実である。

 その田岡組長は自伝で「故人の足跡をたどれば誤ることはない」と述べている。

 この田岡組長の教えが親分を「徳川家康」の教訓に目を向けさせたのかも知れない。

 

 第一巻から順次述べていく事にする。

 

「厳然と勢威を張っている裏には、このような名臣の知謀の助けがあったればこそと、改めて平手中務を見直した」

 この言葉こそ親分が、徳川家康と同じ目線で、織田信長を見て感じた最たる言葉であろう。

 これこそ知恵袋(ブレーン)や、優秀な部下の必要性を認識し、人材育成に力を注いだ素志ともいえる言葉であるといえよう。


 私がある時、若い者を破門にするといった時、親分は「なんぼ親分や兄貴分やゆうて威張っとっても、若い衆が一人もおらんようになったら、親分や兄貴分と違うど。一回でも若い衆の為に、汗や涙を流したことがあるんか。一回でも一緒に苦労したことがあるんか。何でも破門や絶縁いわんと、もういっぺん考えてみい」といわれたことがある。

 まして絶縁といおうものなら「お前、絶縁ゆうたら死刑やど、死刑にするほど、そいつがヤクザとして悪いことしたんか。お前の気まぐれで世の中、通るほど甘いないど」といわれたこともある。


 そのあとで親分は「絶縁した若い者が多かったら多い程、お前がそんなしょうもない若い衆を連れとったゆうことになるんやど」と私の腹に染み入るように話してくれたのである。

 幸い、私が今までに絶縁した若い者は、二人だけである。


 ヤクザ界の死刑に値する絶縁にするほどの掟破りが、それだけ少なかったというのは、私にとっては幸いな極道人生といわねばなるまい。

 

「家臣一同に借りのある主君を暗君といい、家臣にすがられ、その信にこたえてゆくのを明君と、この元忠は存じまする」

 これは田岡組長が自伝で「私は上納金はおろか、うどんの一杯もおごってもらったことはなく、親が子に与えてやるのが、親というべきものであろう」といい「物や金をもらって、目下の者に頭のあがらぬ、みっともない真似だけはしたくないのだ」と述べているのと、本質は同じであろう。

 親分とて、田岡組長同様これを実践していたのである。


 しかし、親に感謝の気持ちを込めて、せめて父の日だけでも「ありがとう」といえるぐらいの甲斐性と、気概を持った若い者に育ってもらいたいと願うのも、親の偽らざる気持ちであろう。

 忠と孝は、表裏一体であり「忠孝両全」これすなわち人の道なのである。

 

 「今後どのようなことがあろうと家臣の前で、わが弱さを見せてはならぬと決心した」

 ここでいう弱さとは、欠点であり、傷ではなかろうか。

 冒頭で述べた通り、私から見ての親分は、欠点らしき箇所が見えなかったのである。

 それだけ、この言葉の持つ意味は大きいのだ。生き物は全て、弱いものが攻撃の対象となる。


 弱さとは、その人の持つ傷に他ならず、傷は見せないのが強者の条件であり防御本能ともいえるからである。

 弱肉強食が世の習いなのである。

 

「迷える者は、つねに暗示が必要なのだ」

 人は迷える子羊だというが、迷える者には絶えず教えが必要である。

 親分は時間が可能な限り、若い者を前に置き、自分の素養や体験を交えて、繰り返しヤクザの所作を教えていた。

 そして何事も本音で語り、本音の中から心の触れ合いを模索したのである。

 洗脳とはかくのごとしをいうのだと、つくづく思ったものである。


 お陰で私は、人格形成過程において親分の教えを得られたことは、何物にもかえがたい財産だと思っている。

 

「知れたことだ。兵の強弱は、大将次第」

 これを分かりやすく述べているのが“一匹の羊に率いられた狼の群れより、一匹の狼に率いられた羊の群れの方がはるかに勇猛果敢である”という言葉だ。

 大将の資質というのは天賦の才もあろうがなお一層、先人の教えをたずね自己鍛錬に励んでこそ、さらなる帝王学が身につくのである。

 “勇将の下に弱卒なし”とは、正鵠(セイコク)を射た戒めであろう。


 徳川家康や竹中正久もまた、これ然りである。

 

「堪忍ほど、わが身をまもってくれる楯はない。わかるの、誰にも出来る堪忍のことではないぞ。誰にも出来ない堪忍をじっと育ててゆかねばならぬぞ」

 この言葉こそが、徳川家康の座右銘である“堪忍”や“辛抱”に行きつく言葉であろう。

 “ならぬ堪忍、するが堪忍”とは、人情の枯渇した今に生きる我々が時に持戒したい言葉である。

 

「正直の淵はとても深い! 何が出てくるか分かりません。嘘は、すぐ底が見えて浅ましいゆえ……」

 徳川家康も親分も誠実謹厳な人である。

 もちろん、嘘を好む人はいないだろう。

 嘘つきが嫌われる所以である。

 嘘も方便というが、出来れば方便にも嘘はつきたくないし、聞きたくもないものである。

 私は“正直者に神宿る”ということわざを信じ“正直は一生の宝”だと思っている。

 でも、時々“正直者が馬鹿を見る”時がある。

 こういう時、嘘をつかれるのは愛嬌だと思う他ないであろう。


 歴史とは、明確にされた経験であるというが、ことわざもまた、過去の経験から生まれた教訓である。

 山口組綱領第五条“先人の経験を聞き人格の向上をはかる”とは至言である。

 

「それでは矢張り、理のない者、義のない者が負けますなぁ」

 これとて両者に共通する概念であろう。

 徳川家康のいう理とは倫理であり、徳川家臣団こそ至宝だといいきれる理知なのである。

 義の人こそ、徳川家康その人である。


 親分の理とは条理であり、田岡組長につき従うことによって得た理念なのである。竹中組事務所、三階大広間に掲げてあった”至誠一貫”こそ親分の義に対する理念そのものである。

 

指導者の系譜Ⅱ

(第6巻2005年1月27日初版発行より)

語録「竹中正久」と

山岡荘八著「徳川家康」との奇縁  第二回

               元竹中組若頭補佐 義竜会会長 竹垣 悟

 

 竹中正久が山口組三代目・田岡一雄組長に心酔する一方、山岡荘八著「徳川家康」を愛読し、人生の範としていたことは第5巻ぼあとがきに書いた通りである。

 

 その続編として、再度小説の中から言葉を借りつつ親分の生き方を浮かび上がらせていきたい。

 

「人間だけは一朝一夕に育てられぬ。今から、そのつもりで世界の睨める大いなる者どもを育てておかねばのう」

 

 竹中も若手至上主義であり、国家百年の大計ではないが、絶えず竹中組の将来を見据えた組織作りを心掛けていた。

 その為に、若手の発掘と、人材の育成に最も力を注いだのである。

 そして自らの熱意を、これら若者にぶつけたのである。それが若手への日常の教育に結実しているのだ。

 

 竹中は、警察に逮捕されたら「絶対うたうな、徹底的に否認せい」と教えていた。そして「留置所の床が腐るか、おのれの尻が腐るかやないけ」といっていたのである。

 否認すれば当然、勾留期間が長くなるからである。

 また竹中は、弁護士を通じて調書を取り寄せ、組員がどんな事を供述しているか、全て把握していた。


 それだけに下手な事も喋れず、殊更(コトサラ)組員の口は固かったのである。

 竹中が直参に上げる目安は、喧嘩根性より何より、一に警察根性だったのだ。

 「なんぼしっかりしとっても、すぐにうたう奴はあかん」が信条でである。

 攻める根性より、耐える根性なのである。

 ここでも竹中の座右銘が生きているのが分かるであろう。

 

  話が逸れた。私は竹中が「うちも湊組(三代目山口組舎弟)みたいに年寄りばっかりになってしもうたらどないすんねん」といっていた言葉を思い出す。

 若さには無限の可能性があるからだ。

 それだけ、型にはまった既製品には、物事の変革は望めないという事だろう。

 

 守りにも忍耐が必要である。

 こう考えると、人材登用ほど「適材適所」という言葉が当てはまるものもないだろう。

 

「自分が怖ろしい時は必ず相手も怖ろしいのだ。ただ気性のすぐれた者は、その怖ろしさを相手に見せぬ。それゆえ相手は、こっちの怖さを見抜けず、これは自分よりも遥かに大胆な立派な者と思いこんで感心もするし頼りにもする。修業を積んで、何事も怖くなくなるまでは、いわば人生の我慢くらべじゃ。その我慢の強い者が。早く怖さを知らぬ勝れた大将にならっしゃるのだ。よいかの、いかなる時にも秀吉が家来どもに臆病者と見られ、あなどられてはなりませぬぞ」

 

 竹中は「相手がどんなもんでも、こっちが怖い思たら、相手も怖い思とんねん!  そやから五分と五分や。先に泣いたら負けやど」といっていた。

 こうしてみると竹中の口癖だった

 “辛抱”というボウにすがって生きてゆきたいのである。

 

「仮説のおたずねは迷惑に存じまする」

 

 竹中は「警察に捕まっても“もしも”とか“たら”の話は絶対にするな」といい「“もしも”とか“たら”の話がちごとったらどないすんねん、人間性が軽なってまうど」とよく話していた。


 「もし聞かれても“そんな想像でいえまへんわ”といえ、うそ発見器にかけられそうになったら拒否せい。もし紛らわしい反応が出たらどないすんねん。人に迷惑が掛かるど」ともいっていた。

 そして「警察も、その時はええがい(いいように)してくれるかもしれへんけど、腹の中ではわろとるど。何でもペラペラ喋る人間を誰がまともに相手にしてくれんねん」とも。


 なる程、警察官も制服を脱げば生身の人間である。

 男として、敵ながらあっぱれと思う場合もあろう。

 また人一倍、男気というものにこだわるものである。

 そんな時、男を感じる人間に好意を抱くのは自然の理(コトワリ)であろう。


 それとてこちらが条理を尽くし信義を守ってこそである。

 信義なくして、仁義なしである。

 

「弱みを見せる者は、まことどこかに弱さを持っている。弱さを持つものは必ず滅びる」

 

 竹中は、弱肉強食こそが生き物の宿命だといい、太古の昔から人類が生き延びて来たのは、知恵で弱点をカバーして来たからだと見ていた。

 それだけに「知恵とチンポはこの世で使え」といっていたのである。

 

 弱点とは、その人間の傷に他ならず、傷がある人間は、どうしても弱いのである。ある時、竹中は「弱いとこを見せたら、相手はとことんそこを攻めてきよる。そやから絶対、弱いとこは見せたらあかんねん」といっていた。

 「警察に逮捕されるんでも、三人で事件を打ったとして、今までに何でもかんでもペラペラ喋って来た人間を一番先にパクリにきよるやろがい」とつけ加えた。

 これとて過去に警察に弱さを見せているからだとさとしたのだ。

 

「いかなる場合にもまず備え。そのあとでいちばん大切なのは、わが身の姿勢を正しておくこと…。いわばこれが人事を尽くして敬虔(ケイケン)に天命を待つ構えじゃ」

 

 これこそ率先垂範、竹中が旨とした生き方である。

 しかし最後にボディーガードの配置という備えを怠り、一和会銃撃班の凶弾に倒れたのは不運としかいいようがないのか……。


 竹中は「一旦狙われたら、なんぼ気いつけてもあかんねん」といっていたが、私は「備えあれば憂いなし」と考える。

 それだけに竹中のこの言葉は、攻める方にとっては、この上もない励みだと思うが、受け身に立つ側が露ほどにも考えるべき言葉ではなかろう。


 ヤクザはいつ狙われるか分からないからである。

 私はいまさらながらに、1.26事件が悔やまれる。

 これこそ、竹中の豪放磊落さが災いした事件である。ここでいう“わが身を正す”とは、人事を尽くして天命を待つ事の根本である。

 

「よいものからは良い芽が出て、悪い因縁からは悪い結果が生まれることだけを知っておけば、それでよいのだと説いてくれた」

 

 竹中は「種を蒔かな花は咲かへんど」といい「種を蒔いたら、肥しをやって手入れせなあかん。

 何でも情を持って接していかなあかんということや」といっていたが、この当たり前の事を人は忘れがちである。

 それを教えるのが指導者としての資質であり、素養である。

 

 また、それを代弁できる人間を見い出し、自分の思うところをより多くの若者に伝授するのも一家の長たる者の務めである。


 竹中は、それだけ人にとって実益のある言葉を投げ掛けていたと思う。

 時として竹中は「情がないいわれたらかなわんからのう」と照れ笑いしながら語っていた。

 それだけ若い者とは血の通った触れ合いを心掛けていた。


 巷間いわれているように竹中は、若い者が逮捕されたら、余程の事がない限り面会に行き、自らの言葉で励ましていた。

 仕切り越しとはいえ、面会室で竹中の息吹に触れる者は当然感激する。


 そして士(サムライ)の観念である「おのれを知る者の為に死す」という感情を竹中に抱くのである。

 意気に感ずるのである。


 竹中自身拘禁生活が多い所為(セイ)か、そこら辺の人情の機微にはよく通じていた。それだけ人の心の痛みの分かる人だったのだ。

 

「実力もないものをあてにする……これくらいバカな話はない。この誤算は、必ず敗れのもとになるのだ」

 

 竹中も徳川家康同様、人間観察力に長けていた。

 それだけ若い者と身近に接し、喜怒哀楽を共にしていたのである。

 身近に接しておれば自ずと、その人物の識見や気質は分かってくるのである。


 竹中の親分である田岡は、盃を下ろした者を一定期間、親分付きとして身近に置き、自分の目でその人物の資質を見極めたものである。

 竹中も「一旦乗りかかった船や! その船が泥船やって沈んでしもうたら、自分の見る目がなかったんや思うてあきらめたらええねんや」といっていた。


 誤解のないようにいっておくが、竹中は無分別な人間ではない。

 この言葉からも察せられるように、それまでに十分な人間観察をしているのだ。

 これが竹中の凄味であり、自信につながっていたのである。

 子は親の背中を見て育つというが全くその通りである。

 それだけに正しい姿勢を見せたいのである。

 もちろん、人並みの器量があれば、どの子も親を教師として捉える洞察力は持っている。


 親が考えている事は、子には敏感に伝わるのだ。

 

「いちばん賢く日和見(ヒヨリミ)にまわったつもりの中立主義者が、その実どのような皮肉なみじめさを味わうものか、記しておけばそれで足りよう」

 

 竹中は「男やったら旗印は鮮明にせなあかんど」といっていた。

 自分の器量を顧(カエリ)みず、上手い具合に神輿(ミコシ)に乗り、人に担いでもらおうと思うのが間違いである。

 旗印を鮮明にしてこそ、事が破れた時、自分の所在をはっきりさせることが出来るのである。

 男としての責任が取れるのである。


 日和見とは、御都合主義であり、自身の立場の弱さとずるさを、天下にさらけ出すだけのものである。


 一個の組織に於いて、一日緩急あれば、中立主義とは時として旗色を窺(ウカガ)い「漁夫の利」を得ようとする、狡猾(コウカツ)で小心な狐狸(コロ)の類(タグイ)でしかないのだ。

 こういう輩(ヤカラ)は、到底旗頭に仰ぐべきではないし、また、そんな器量もないのだ。

 奸雄(カンユウ)とて、旗幟(キシ)は鮮明にするものである。

 混迷する時代に於いてこそ明確に自分の意思を示し、その旗印の下に、おのれの道を押し進むべきであろう。


 潔(イサギヨ)さとは、戦いのあとにこそ生まれる言葉である。

 日和見には、潔い気質は生まれようもないのだ。

 豊臣秀吉と明智光秀は山崎で合戦した時、洞ケ峠(ホラカトウゲ)に陣取り、日和見を決め込んだ筒井順慶のその後を見れば、冒頭の言葉の意味が自ずから理解出来よう。

 

 

博徒「竹中正久」研究白書

(第7巻2005年8月27日初版発行より)

元竹中組若頭補佐 義竜会会長 竹垣 悟

 

荒ぶる獅子 全7巻 (株)竹書房
荒ぶる獅子 全7巻 (株)竹書房

 親分は昔風に区分すれば、生粋の博徒(バクト)であり、バクチを生業(ナリワイ)としていた。


 テキヤは「子」が「親」を養い、博徒は「親」が「子」を養うというが、バクチの手伝いをさせることによって若い者に礼儀作法を学ばせ、バクチから上がるテラ銭で「子」の面倒を見ることが可能になるのだ。

 バクチが性(ショウ)に合わない者や自分なりのシノギを確保している者はバクチの手伝いをする必要はなく、自分なりの才覚でヤクザを続けていけば良いのだ。


 私が竹中組組員として第一歩を踏み出したのは、坂本義一の盃を受けてからである。

 この当時坂本は、若頭補佐の要職にあり、程なく若頭に就任したのだが、博徒の竹中組若頭らしく、この頃から時折、賭博(バクチ)を開帳するようになった。


 坂本自体、組の抗争事件で、当時本多会系では最大級の組織といわれた小川会の幹部を斬殺し、懲役10年を務めあげたほどの剛の者だ。

 だが、そんな実績とは裏腹に温厚篤実を絵に描いたような人物だった。

 それだけに誰にでも好かれ、組内の人望も第一であった。


 「ヤクザは人気稼業である」というのを地で行ったのが、この坂本である。

 私はバクチごとに疎(ウトク)く、皆目興味がなかったのだが、坂本は苦労人で思いやりの人らしく、そんな私の心理を見透かしたように「悟よ、お前はこれから伸びて行かなアカン男やから、バクチの手伝いはせんでもええぞ、ええ若いもんが灰皿替えたり、人にペコペコ頭下げとったら大きならへんからのう」といっていた。

 これは親分がいっていた「俺らが持っとるプライドも、今日やきのうヤクザした子が持っとるプライドも、みな一緒や。それをいえる立場かどうかだけのもんや」という言葉に影響されたと思えるのだ。


 その辺りを曲解して、立場にアグラをかけば将来に禍根を残す、とは先人の教えである。

 竹中親分は田岡組長の教えを堅持し、下の者に世話になることを潔しとはしなかった。

 そんな親分だけに、常々「メシの一杯よばれても一宿一飯の義理や! 義理を噛みとうなかったら下のもんにおごってもらうな」といい、「同格の者同士でも、せめて三回に一回は身銭を切れ」といっていたのだ。


 親分が四代目を継承して間もなくの頃、地元姫路にある「クラブ小りん」へ、当時の山口組若頭・豪友会会長中山勝正らと連れ立って飲みにいった。

 帰り際にいつものように親分自ら財布を出し、その時付き添っていた坂本義一にその店の支払いを申し付けた。


 その光景を目にしてかたわらにいた中山若頭が「あんたはもう四代目になったんやから、そんなことはわしらに任せといてくれたらよろしいねん」といったらしい。

 この時親分は一瞬戸惑った表情を見せたそうだが、気を取り直して、中山若頭の所作に任せたそうだ。


 このエピソードからも察せられるように、それほど親分は田岡組長の教えを実践し、田岡組長の生き様に傾倒した生き方をしていた。


 親分が好んで唄った歌に、高倉健の「男の誓い」がある。この歌には、男の情義と、ヤクザとしての理念が満ちあふれている。

 親分は「俺の生き方かいな。そりゃ男で死にたいよ。一言でいうたら男やったということで死にたいわな」と、サンデー毎日の取材班に答えている。

 親分が愛唱した「男の誓い」そのままの心情である。


 親分はことさら男の生き様にこだわったのだ。

 それゆえに、男の終焉まで言及しているのである。


 親分がこだわった男の生き様とは、燦然(サンゼン)と煌(キラ)めく夜空の星のように、男の背中に夢を醸(カモ)し出すようなものであったのかも知れない。

 そういう意味でも親分は、陰気で辛気臭い人間を嫌った。

 おおむね陽気で単純な気質を良しとし、私のような単純で、トッパ気のあるヤクザ馬鹿を好んだのである。


 そんな親分の言葉で忘れられないのが「あいつみてみい、暗かったやろがい。あんな暗い奴がパクられたら、何でもかんでもペラペラ喋ってまうんやど」といっていたことだ。

 私のヤクザしてのルーツは坂本義一であり、その坂本の理念の基になったのが親分である。

 その親分は、気迫ということにこだわり、事あるごとに、「極道は気迫を持たなアカン」といっていた。

 そして若い者とは胸襟を開き、喜怒哀楽を共にすることによって、より一層強固な絆が結べるとの姿勢を終始崩さなかった。


 そんな親分が、三代目山口組若頭当時、後の一和会会長山本広に対して述べた言葉がある。

 「若い者が喧嘩したら、すっと自分で飛んで行って話しつけたるとか、若い者のために体を張るとかせなあかん」これこそ一家の長たる者の気概というべきものであろう。

 こういう人情味あふれる言葉を聞けた昭和の時代というのは、夢のまた夢である。

竹中組の代紋入り提灯を背にする若き日の義竜会々長・竹垣悟
竹中組の代紋入り提灯を背にする若き日の義竜会々長・竹垣悟

竹中正久的思考術

 

                  元竹中組若頭補佐 義竜会 会長     竹垣 悟

 親分・竹中正久の口癖と云えば、矢張り私は「山より大きな獅子は出ない」と云う言葉に行き着くのだ。

 この言葉の出展は徳川家康で、当時の私にとっては新鮮な響きであり、それだけにインパクトも強かった。

 

 「竹中正久的思考術」に於いては親分を身近で見て来た私なりの「解釈」なので、多少私の思い入れも入って居ると思うのだが・・・

 それは時代の流れの中で、親分が私の心の中で一部「血」となり「肉」となって「神聖化」した部分があるからだ。

 時代の流れと云うのは「欠点」さえも愛すべき「長所」となり、思い出に花を添えると云うが全くその通りである。

 

 しかし殊、親分に関しては、私が知り得る限り「欠点」と云える箇所が思い浮かばない。

 「詭弁」じみた云い方かも知れないが、恋は盲目という捉え方をすれば、私が親分を「敬愛」し「心酔」していたから欠点が見えなかったのかも知れない。

 (これは私の中で評価が別れる)

 

 しかし、考えれば考える程、親分は惜しむらく散った桜の花のイメージなのだ。

 ここら辺が「天寿」を全うした「徳川家康」と違う所だが、これこそ二人の「イメージ」が結びつかない要因かも知れない。

 

 親分に被せられたイメージのひとつに「短気」というのがあるが、これは飯干晃一が「もう一つの日本山口組」で述べている。

 確かに親分の言動を見ていると、飯干晃一が短気だと極論するのもうなずけるのだが、生身の親分を知る人間なら、親分の場合、それが「計算ずくの短気」だったと云うであろう。

 

 竹中正久を語ると云うのは、いくら筆舌に尽くしても尽くしきれないのだ。

 大人物とは、まさに親分・竹中正久の事を云うのである。

 

 親分が読書家であったことは今迄にも様々な場面で述べて来たので割愛するが、昭和五十四・五年頃に竹中組に出入りしていた者なら誰でも知って居ると思うが、当時吉川英治の「宮本武蔵」と山岡荘八の「徳川家康」それに司馬遼太郎の「播磨灘物語」が応接間のサイドボードの下段に無造作に置かれていた。

 

 今思えば当番の者に、それとなく読めと云う親分なりのシグナルだったのかも知れない。

 原点回帰と云う言葉が以前盛んに取り沙汰されていたが、そう云う意味では親分が生き急ぎ、駆け抜けた「昭和」と云う時代にこそ、やくざの原点があると云えよう。

 昭和の時代へ回帰する事によって、時代の転換期を過ぎた現在を乗り切れるのではなかろうか・・・

 

 そして、物が無くても心が豊かであった時代の真っ只中に思いを馳せてこそ、世の中全体に明るい風潮が芽生えると思うのだ。

 それには時代が変わった事を素直に認め、その変化に対応して行く為の「意識改革」が必要であろう。

 今の混迷の時代に、国家なり組織が進むべき道を明確なる意思(ビジョン)を持って、より多くの人に示すのも此れまた「長たる者」の「責務」である。

 かなり以前、政治に携わる人から「マニフェスト」なる言葉を耳にして居たが、結局このマニフェストが「希望的観測」で終わったのである。


 何事にも実現させる熱意と力量があってこそのマニフェストであり、公約だと思えるからだ。


 最近は流れる雲のように時代が変わり、その流れる雲を追う様に世相も変わりつつある。

 侠客の掟と云うものは、誰しもが持つおとこ病(やまい)みたいなものなのだ。

 男ならどんな職業に就いていようとも、一度は「侠客」になれるのである。

 いや、ならなければならないのだ。


 我々日本人には、必ず「関が原」で戦ったと云う「先祖の霊」が取りつき流れているからだ。

 私の云う「意識改革」がこのまま定着し「社会底辺」に「一条の光明」が差し込む事を、その道の「先人」として、また、その道の歴史の「語り部」として祈念したいと思う。

 古事記の語り部「稗田阿礼」のように・・・