野村秋介×竹垣悟・いじめられっ子と言論の自由

 二十一世紀書院が発行している月刊誌「燃えよ祖国・最新号」に野村秋介・パリで日本を語る と題した記事が掲載されていた。

 概括すると 天皇(制)がなければ、日本はとっくのむかしに滅んでいたとある。

 

 俺も改めて思うのだが、戦後70年が経って振り返ってみると 敗戦後、全国をひたむきに巡行して歩かれた昭和天皇の真摯な姿が目に浮かぶ。

 

 日本人の大多数は、その姿を見て励まされたはずだ。

 

 結果 自尊心を失わずに今日の繁栄を築くことが出来たのである。

 

 また 江戸時代までの日本人は、責任をとる時には腹を切った。

 幕末・新撰組に代表されるように、それがその時代の作法だったからである。

 

 戦国時代のむかし、戦って勝った時は 相手の首をとった。

 それが その時代の要求だったからである。

 

 野村秋介師の話しに、更に俺の心情を絡めよう・・・

 

 その時代によっては、相手と戦って首をとらなければ 自分の首がとられてしまう時代があった。

 その代表が戦国時代と云えよう。

 

 そういう価値観の中で、日本人の心は育まれた。

 

 1945年の第二次世界大戦が終結するまで、世界中は侵略の積み重ねだった。

 

 アメリカの傘の下で平和ボケを享受した日本は 平和と云う言葉に酔うが、その裏でアメリカが同盟国の威信を賭けて戦った。

 若しアメリカという同盟国が無かったら 日本列島の東半分は、ソ連の領域になっていただろう。

 

 どこかで誰かが 睨みを効かせるから、平和が保てるのである。

 

 極論を云えば 平和と云うものは、戦わなければ得られない。

 もし戦いを放棄したら「イスラム国」のようなテロ組織を のさばらせる要因となる。

 

 いじめの本質に入る。

 

 学校で云うと 戦うという姿勢を放棄したら、いじめられっ子が出来る。

 いじめられっ子というのは、結果 戦う姿勢を放棄してしまったという現実なのである。

 

 やはり 学校でいじめられない為には、戦う姿勢をどこかに秘めておかなければならない。

 それは個人においても 国家においても同じだ。

 

 野村秋介の激情を続ける・・・

 

 日本では「言論の自由」と云うけれども、言論の自由を守るのも 平和を守るのも どこかで、何かと戦わなければならない。

 だから 戦後の擬似平和主義者とか、偽者のヒューマニズムとは もう決別する時代が来ている。

 

 ・・・本当の平和主義というのは 内面に戦う節烈とした情、思いを持ち、本当に人道主義を唱えるならば 命を賭けた人道主義でなければならない。

 

 ・・・こんな激情に触れ、俺は久し振りに魂の切迫を感じた。

 野村秋介師が残した言葉こそが、これからを生きる我々に課された宿縁であろう・・・

                                      合掌

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コメント: 1
  • #1

    日本軍国主義を考える会 事務局長の高橋であります (水曜日, 03 6月 2015 17:36)

    燃えよ祖国 読ませていただきました。
    竹垣代表の言われることは全て正論です。
    この投稿文で、野村秋介先生や蜷川正大先生と並んで竹垣代表のファンに成りました。