山口組戦闘部隊・中野会

 俺が所属した組織に、泣く子も黙る・中野会と云われた組織があった。

 五代目山口組では伝説の組織である。

 因みに 四代目山口組では、竹中組が伝説の組織であろう・・・

 

 俺は そのふたつの組織の中で 執行部の中核を担った。

 義竜会と云う 俺が手塩に掛けた組織を率いて・・・

 

 こんな俺が 中野会当時から仲が良かった人間が居る。

 この男は現在70歳過ぎで、中野会最後の若頭と云われた加藤眞介とも仲が良かった。

 加藤眞介という男は、俺が知る限り 最後の極道だった。

  

 ・・・宅見事件だが、実行犯として懲役20年を宣告された男が先日 仮釈放で出所した。

 組織の大義を信じて、若い命を中野会に賭けたひとりだ。

 

 命を賭ける程、魅力の有った親分が 中野太郎である。

 しかし、中野太郎の懐刀と云われた風紀委員・吉野和利(宅見事件後 風紀委員長)が指揮する中野会は 喧嘩をする相手を間違った。

 

 どの世界でも 組織を牽引する者が暴走すれば、下の者が苦労する。

 さしずめ 赤穂浪士と中野会は、その最たるものだろう。

 

 話しを変える。

 戦国時代は まさに「下克上」の世界で戦乱が絶えなかった。

 俺は 戦乱に明け暮れた中野会時代を思う時、虚しい気持ちになる。

 あの時代は 何もかもが狂っていた。

 

 それが 世論の高まりと共に 暴力団排除条例として今に至る。

 結果、極道社会そのものが 角力(すもう)の世界と同じように 男伊達を競う無形文化財のような形になりつつある。

 これは時代が産んだ 特産物のようなものだろう・・・

 

 俺が堅気になって、どう云う訳か 社会貢献に力を注ぐようになった。

 ボランティア活動と云うのは、少しばかりの身銭を切らなければ何も出来ない。

 これは純粋な右翼活動も同じだ。

 

 現在 俺は、篤志家として生きている訳だが、全国に名を知られた暴力団組長が ここまで出来ると云う見本をひとつ作れたと思っている。

  

 俺の志しを、こうして書き綴っていると不思議なもので、身も心も男としての極みになる。

 まるで東映映画の主人公になったようだ。

 

 むかし 俺が野心を持っていた頃、運の向くまま大概のことが実現した。

 そんな野心も中野会という看板と共に消えた。

 それだけ中野太郎の存在が大きかったということだ。

 それを実感したのは、古川真澄の舎弟になってからだ。

 

 舎弟と云うのは、極道社会では隠居と同じだったからである。

 

 俺は極道社会に入る時、若頭補佐になって若頭になるのが夢だった。

 そういう生き方を 極道社会での指針とした。

 

 余談だが、宅見事件が起こる平成9年8月までの中野会若頭補佐は、金山義弘・高山博武・竹垣悟の三人だけで 吉野和利は風紀委員、宮本徹は宅見事件前後 若頭補佐に復帰した。

 当時の中野会で 若頭補佐と云うのは、それだけ重責を担っていたのだ。

 

 写真は、俺を挟んで当時の若頭補佐三人衆だ。

 どちらも極道として実績もあり、信念を持った男だった。

コメント: 1
  • #1

    京都ナンバー (月曜日, 30 3月 2015 22:56)

    こんな凄い人が…と、毎週拝見させて頂いています。一般の僕とは世界が違う方だと思いますが、今の活動を知り、ただ感心するばかりです。