竹垣悟の獄中始末記 

 調整役(フィクサー)の重要性を説く 

 

 俺は 営利を求めず、人に見返りを求めない生き方をして来たが、そう云う面では 極道時代から同じスタイルを貫いているつもりだ。

 俺は性格を曲げず 素直な心で、今日までブログを綴って来た。

 歳月人を待たずと云うが、早いものでこのトップページを開いて もう二年の歳月が流れようとしている・・・

 

 最初俺が このブログを通じて世の中に「警鐘」を鳴らしたのは、今思えば正鵠を射た戒直だったろう。

 俺が終始一貫して訴えて来たのは、アウトローから見た表社会の決意と、アウトロー社会の現状から見た 進むべき道についてだ。

 

 日本の国は今、原発問題を抱え 民主党・鳩山政権時代に暴走した沖縄基地問題、それに国際社会の経済不況と中国・韓国の反日感情の高まり、北朝鮮の独裁政治による軍事的暴発の危険。

 それを受けての日本政府の対応等、国家の根幹を揺るがす問題が山積(さんせき)した。

 

 そこで日本人としてのルーツを想う時、古き良き時代への回帰論が出て来るのである。

 来年度の山口組指針「温故知新」は、その最たるものだろう・・・

 

 安倍晋三首相が 憲法第9条の改正を念頭に置いての国会解散・総選挙は、誰もが知る事実だ。

 国家と国民の更なる発展の為には、議論の延長上に 保守派と革新派の衝突は避けて通れない。

 国家を取り巻く状況と 国民の主義主張は、色んな面で異なるからだ。

 

 議論を尽くして 尚且つ衝突が起きるのは「舞台裏」を支える調整役の「情報力の乏しさ」と「器量不足」それに 調整役に与えられた「権限」の曖昧さに外ならない。

 

 何事も 重石(おもし)は重たいものに限るのだ。 

 

 俺は、どの世界にも 調整役(フィクサー)は必要だと思っている。

 

 世間擦れした話しだが 高倉健や菅原文太が逝った今、どの顔を見ても小粒揃いに見える。

 

 アウトロー社会は、金集めの上手い人間しか生き残れないのが現実だ。

 そこで 骨太な人間が育った「昭和」と云う時代を見つめ直す「気運」が高まりつつあるのだ。

  

 ニッポンの国というのは 親から子・子から孫へと伝統を受け継いで行き、何代もの世代がひとつの方向に重なった時、栄光の未来が完成すると俺は思う・・・

 

 話しを変える。

 平成10年から11年頃の京都刑務所時代 俺は「京刑一」と云われた厳しい刑務官が担当する工場に下りた。

 下りて少し経って(黒川だったか、郭こと 大倉八仙だったか失念したが)懲役と作業中話して居るのを「担当」に見つかった。

 

 「竹垣、チョット担当台まで来い!」と云われたので行くと「お前 誰と喋っとったんや?」と聞かれた。

 俺は「ひとり言(ごと)でんねん」と答えた。

 「竹垣、何云うとんねん。お前 気違いじゃあるまいし、なんでひとり言(ごと)やねん」と尚、担当が突っ込んで来る。

 俺は正直に「隣の懲役と喋ってましてん」と云う訳にも行かず「もう よろしいわ。保安でも どこでも連れて行きなはれ」と云った。

 担当が保安課に電話して「係長」を呼んだのは、云うまでもない。

 

 俺は 嫁が京都まで面会に来て 懲罰中で俺に会えずに帰る姿が目に浮かんで、寂寥感(せきりょうかん)に苛(さいな)まれた。

 そこで俺は今までの獄中経験を活かし、極力取り調べにならないように考えた。

 

 保安に連行され「ビックリ箱」に入る寸前、俺は係長に「親父(工場担当)に、懲罰を上がったら又 工場に取っておくんなはれと伝えてほしい」と伝言した。

 そして「ビックリ箱」に入って数時間経って 工場担当が、何も処分せず連れ戻すように係長に云ったらしい。

 そんな訳で、俺は処分なしで工場に戻った。

 

 たぶん工場担当は 俺の身分帳を見ていたのだろう・・・

 この件で叱責や訓戒もなく、それから工場担当は俺の面倒を目一杯見てくれた。

 

 この親父は、三重県津市にある日生学園で教師をしていて、体罰問題で教師を辞め「名古屋刑務所」の刑務官になり、それから「京都刑務所」を締(し)めるために着任したのだった。

 

 俺は 刑務所で事故を起こさないと云っても 違反はするし、反則もする。

 しかし俺は妙なもので 刑務官に好かれて、何でも握ってもらっていた。

 

 俺は食堂で隣の もう直ぐ出所する者に、ヤクルトを貰って飲んでいるところを この刑務官に見つかったこともある。

 「おい竹垣、お前 隣の奴のヤクルト飲んでもたやろ」と云うので、俺は「すんまへん」と云った。

 この話しの続きは 次回する。