竹垣悟流・素手喧嘩(ステゴロ)

 男という生き物は、成長過程で強い者に憧れる傾向があると云う・・・

 遺伝子学上で云えば、女も同じだ。

 

 俺も多分に漏れず、強い者に憧れた。

 そして女に持てたいと思い「ボクシング」を習い始めた事がある。

 当時は「ミドル級」で、俺も華奢(きゃしゃ)な体をしていた。

 

 バンテージを手に巻く事から始まり、基本姿勢・そして「ジャブからワン、ツー」

 「ワン、ツーからアッパー」・・・

 

 そのうち飽きて「シャドー・ボクシング」に切り換えた。

 喧嘩等 ルールは要らないので、俺なりのスタイルで「素手の喧嘩」をするコツを覚えたからだ。

 

 俺は博打(ばくち)を含めて戦うことは好きではない。

 だが、売られた喧嘩は買う。

 意地っ張りの、このスタイルは今でも変わらない。

 

 ・・・昔とった杵柄(きねづか)とでも云おうか、俺も子供の頃 ほんの少しだが水泳で体を鍛えていた。

 だから足腰は丈夫だ。

 動作の大きい俺の喧嘩は「迫力があった」と見ていた者から聞いたことがある。

 

 今は「ライトヘビー級」だが、ヤクザをしていた頃は「ヘビー級」だった。

 

 俺は負ける博打はしない。

 「博打は勝つ為にする」と、司馬遼太郎の書いた「関ヶ原」の中で徳川家康が云っていた。

 俺は、この「関ヶ原」という番組を何回も観た。

 

 「森繁久彌」演じる徳川家康と「宇野重吉」扮する豊臣秀吉、それに「加藤剛」の石田三成が、丁々発止の駆け引きを繰り返していた。

 俺にとってこのドラマは、或る面 人生の指南書となった。

 

 ・・・俺は暴力団時代「三千世界」を見て来たような感じがする。

 「三千世界」とは、もちろん仏の世界だ。

 

 その頃の習慣だが、今でも神社仏閣巡りをする。

 それが興じて、俺の家は「祇龍寺」と号して時代掛かっている。

 一階に仏壇を置き、二階は神棚を祭っている。

 二階の一室は、昭和天皇が白馬に跨(またが)った写真や、明治天皇の名前「睦仁」と書いた額を飾ってある。

 

 この部屋には新撰組の近藤勇や土方歳三、それに長州奇兵隊の高杉晋作や土佐の海援隊・坂本竜馬を始め 維新で活躍した人たちの遺影も飾ってある。

 もちろん俺の高祖父・田中河内介の直筆の短冊も飾ってある。

 俺がいま残念に思うのは、親分・竹中正久に毛筆で額に入れるような大きな字を書いてもらわなかったことだ。

 

 俺は、田岡一雄組長が座右の銘にしたという、戦国時代の武将・山中鹿之助の「憂き事の なほこの上に 積れかし 限りある身の 力ためさん」という辞句を書いた「掛け軸」を、加茂田重政から貰ったことがある。

 加茂田重政は、田岡文子姐から三代目田岡一雄組長が死んだ時、形見で貰ったと云っていた。

 

 加茂田は俺に「竹垣、お前には世話になった。そやから俺が形見に文子姐から貰った掛け軸をやる」と云って呉れたのだ。

 その掛け軸も、俺が中野会から古川組に行った時 古川真澄に上納した。

 俺が持つより、三代目・田岡一雄と縁があった古川真澄が持った方が値打ちがあると思ったからだ。

 

 俺が上納した時、この掛け軸を古川真澄が桐箱から取り出して、一瞥した瞬間「これは親父(田岡一雄)の部屋に掛けていた軸や」と云って大切そうに箪笥の中にしまっていた。

  

 天下の加茂田重政が、三代目山口組から形見に貰った由緒ある品だ。

 俺と古川真澄の距離が近かったのは、こんな事にも由来していたのかもしれない。

 

 余談だが、加茂田重政から電話があり、先月(9月)21日に神戸の病院に見舞いに行って来た。

 俺が堅気になったと云うと「良かったのう」と云ってくれた。

 名刺を渡すと「これ、貰(もろ)とってもええんか」と云うので「貰って下さい」と応えた。

 俺が好きな極道のひとりが加茂田の親分こと、加茂田重政だった・・・