五仁會 城南・白鷺地区から暴力団事務所追放運動

 俺が「第五回・作田明賞」の優秀賞を受賞したのが今だに夢のようだ・・・

 まさか、俺が受賞出来るなんて、昨年の今ごろには考えられなかったことである。

 「人生至る処に青山あり」とは良く云ったものだ。

 

 ・・・作田明賞を受賞してから半月余りが経つが、今頃になってボディーブローのように「ジワッ」と俺の身体に、受賞の重みがのし掛かって来た。

 

 そこで早速、暴力団追放センターが発行する「わが町に いらない いれない 暴力団」というポスターを我が家に張った。

 だから俺の家の中は一寸した「暴追センター」であり、民間で初めての「暴力団更生会」の本部事務所といったところだ。

 俺は、こんな単純な男なので、今では完全に暴力団更生界の第一人者だと自負している。

 

 以前このブログにも書いたことがあるが、俺の住む坂元町には暴力団事務所がひとつある。

 この組の二代目には、俺が塩町118番地に「自宅兼暴力団事務所」を置いて居た頃「地上げされ」俺が刑務所に入るのを見計らって「事務所」と竹垣絹代名義で借りていた「自宅マンション」の双方を同時に出て行くように明渡請求事件を提訴された。

 俺はこの時、服役中だったので、このやくざとしてあるまじき行為に憤慨した。

 

 同じ五代目山口組に所属する暴力団が、渡辺芳則組長の威光を笠に着て、事務所の明渡請求を提訴するのだから俺はこの時、渡辺五代目の時代は終わったと思った。

 

 訴状に書いてある明渡請求の理由は「被告 竹垣絹代は暴力団 義竜会々長 ・竹垣悟の妻なので出て行け」だった。

 

 こんな無茶苦茶な地上げをした男が「五代目山口組」出身母体の最高幹部に就いて居たのも驚きだが、この事をわざわざ俺の嫁が経営していた「アンロワイヤル」というブティックにまで云いに来た組員もいたそうで、流石の俺もこの話しを聞いてずっこけた。

 

 これは姫路の繁華街では有名な話しで、やくざの世界も同じで「平家にあらずんば人にあらずと云うのはほんまやなぁ」と云われていたそうだ。

 

 この明渡裁判の一回目は俺所が勝訴して、二回目は負けたので金を貰って出る事にした。

 だから俺は塩町から出て、現在坂元町に住んでいる。

 世の中というのは不思議なもので「念ずれば 花開く」というが、俺が塩町を出て次の住まいとして、こだわったのが坂元町だ。

 

 ・・・俺は坂元町に引っ越して来て、いつかはやろうと思ったことがひとつある。

 

 仁義のない男が借りている暴力団事務所は、何のお咎めもなしに現存している事に俺は憤りを感じた。

 俺の生まれ育った城南・白鷺地区に暴力団事務所がある事自体、俺には許せないことなのだ。

 

 俺が京都刑務所の中で味わった地獄の苦しみを考えれば、地元住民の為に暴力団事務所を追い出すこと等たかが知れた苦労だ。

 刑務所の中でストレスを溜めることを思えば、どんな事でも取るに足らないことだと思うようにしている。

 

 肉体的苦痛等、娑婆に居れば少しの辛抱で直ぐ痛みは止まる。

 しかし精神的苦痛というのは、常人の神経では中々埋まることの出来ない塗炭の苦しみなのだ。

 

 俺はこの苦しみに耐えたからこそ、こんにちの自分があると思っている。

 そういう面では、この二代目に感謝しているのだ。

 

 だから今ではこの二代目に対して憎しみはない。

 あるなら、この前偶然会った時、問答無用で殴り倒している。

 こんな俺の真っ直ぐな性格は、姫路の極道なら誰でも知っているはずだ。

 

 余談だが、俺は「やられたら、やり返す」と云うのは、むかしのやくざの論理で、今はどんなことを思われようが最後に勝てば官軍なのだ。

 ・・・どの道であろうとも表社会で通用する人間になってこそ、男というものである。

 

 そういう面で俺は暴力団が侠客に生まれ変わるのを、この目で見て、あの世で待つ竹中正久親分への土産話しにしたいと思っている。

 

  特報

 9月11日・木曜日 発売の「週間実話9/25号」に、作田明賞の受賞の模様が掲載される事になった。

 内容は「週間実話9/25号」を木曜日に買ってからの楽しみと云うことでどうだろう・・・

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コメント: 1
  • #1

    NPO法人日本復興青年団 溝口 隆男 (月曜日, 08 9月 2014 12:17)

    竹垣代表ご無沙汰しております。
    第五回 作田明賞 受賞おめでとう御座います。
    益々の御活躍とお体に気をつけてこれからも頑張って下さい。
    微力ながら応援させて頂きますので今後とも御指導御鞭撻の程
    宜しくお願い致します。