最後の極道

パーティーで五仁會バッヂをつけホストとしてビールを注ぐ著者・竹垣悟
パーティーで五仁會バッヂをつけホストとしてビールを注ぐ著者・竹垣悟

 私が歩いて来た道を振り返って、このブログを綴っているのだが「読み手」は、十人十色で人それぞれ色んな景色に見えるようだ。

 

 吐いた唾は飲み込まず、男が一旦こうだと決めたら曲げないのが、所謂(いわゆる)筋道と云うものである。

 

 トラック野郎の菅原文太ではないが、御意見無用という言葉もまた味があるのだ。

  

 こんな堅い男なので、真っ直ぐ先しか見えないのかも知れない。

 

 私は何があっても嘘を吐かず、何事も真面目にやって来た。

 

 だから嘘実(きょじつ)入り交じった評伝より、私自身がペンを執ったノンフィクションの方が迫力があると思う。

 

 ・・・物事は、何事によらず「ピン」から「キリ」まである。

 

 文章もそうだ。

 ノンフィクションというのは、特に書き手の人格が出る。

 嘘つきが書けば、もちろんフィクションだ。

 

 当たり前の話しだが、人生は一期一会で一回きりだと云うのが私の持論だ。

 

 そこで一回きりの人生を池の中で過ごすか、広い世間に出て天下を見渡すか、それはその人の志し次第である。

 

 私は何かをするなら、名のある先人に教えを請いたい。

 

 今だに青雲の志しを持ち、男で死にたいと思っている。 

 それが華のある人生の幕引きと云うものだろう・・・

  

 こんな考えだから「ピン」から「キリ」までの「ピン」を追い求めて、生きているのだ。

  

 「ピン」を手に入れる為には金も要るが、何よりもこだわりが要る。

 

 私は将来「ピン」になれる人物か、その「ピン」の仲間として共にやって行けるかで友だちを選び、仲間も集めて来た。

 

 最初は一流だった人間が、どこかで落ちこぼれたら手を差しのべ、磨き直すこともする。

 

 しかし、ぬるま湯に浸ったままで上がろうとしない奴に手を差しのべるほど、私は奇特な男ではない。

 そんな奴は、ぬるま湯から上がったら風邪を引くから、ずっとぬるま湯に浸っているのだ。

 

 私の友人に、酒で身を持ち崩した男がいる。

 

 明確な理由が分かっているのに、今だに酒を飲んで酔いつぶれている。

 いやぁ~、この男は惜しい男だ。

 

 酒もそうだが覚醒剤も同じだろう・・・

 薬物や酒で身を崩した人間が如何に多いことか・・・

 

 これらも含めて暴力団や犯罪者としての過去を悔い改めて、節度ある人生を送りたいと思うなら、五仁會の門を潜ることだ。

 

 余談だが、暴力団に対する「結社罪」に就いて述べる。

 ・・・集団的自衛権が閣議決定したいま次に「結社罪」を新設するのは簡単なことだ。

 

 しかし「結社罪」を作れば、世の中が混沌として濁(にごり)水のような社会に変わって行くだろう・・・

 これが現実社会の仕組みだ。

 

 結社罪を作れば、世の中は盗人や詐欺師が横行し、個人の欲得だけで生きて行く人間が溢れ出すようになる。

 

 もちろん暴力団が無くなれば、それを取り締まる暴力団対策課も無用な存在になるのだ。

  

 暴力団があってこそ、その対極にある警察官も勇気が第一条件になる。

 

 机上論を述べるのは簡単だが、実質現場へ出て暴力団と対峙するには度胸がいる。

  

 話しの結末を云う。

 この前、拳銃自殺をした吉岡進(53歳)だが、私はこの男は立派だと思う。

 警官を撃たず、自分の命を絶ったからである。

 

 普通、人を殺してでも自分は助かりたいと思うのが人情である。

 

 吉岡よ、あの世で会ったら俺が勲章をやるよ。      合掌