義竜会 YAKUZA WIKI

 当初、YAKUZA WIKI に掲載されていた「義竜会」の項目を紹介してみたいと思う。

 

 義竜会は、兵庫県姫路市塩町に本家本部を置いた暴力団とあった。

 

 いま現在掲載されているのは、地図上どこにも存在しない町名・坂本町と書いてある。(掲載内容が常時変わるので、今はどうなっているか分からないが、塩町以外は全て間違いだ)

 

 そのあとを続ける。

 ・・・竹垣悟は竹中組の生え抜き。竹中正久に溺愛されていた。何処に行くにも必ず竹垣を連れて行くほどだった。 

 初代竹中組では竹中正久のボディーガードとして活躍して、二代目竹中組では若頭補佐として山一抗争という難局を乗り切った。

 竹中組が山口組を脱退した際、竹垣は竹中組を脱退して縁のあった中野太郎率いる中野会に移籍した。 

 中野会では若頭補佐として超武闘派軍団 中野会の組織運営を担った。

 中野会が絶縁処分になった時は、古川雅章率いる古川組に移籍。 

 古川雅章から舎弟盃を貰い、舎弟頭補佐に。

 古川雅章が引退して二代目襲名に際して、二代目古川恵一からの盃を拒否して破門処分になった。 

 また漫才師の横山やすしとは、義兄弟盃を交わしている。

 

 ・・・と掲載されていたのだが、私が五仁會を設立して「ホームページ」を立ち上げてから、この正しい略歴が削除され住所も違うまま、こんにちに至っている。

 

 運営サイトが訂正メールを受けて書き直したと思うが、確認する作業を怠って書き直したのであれば「YAKUZA WIKI」の有効性が損なわれるだろう。

 

 ひとりぐらい二代目の盃を拒否して破門になった男が、天下のYAKUZA WIKIに公表されても良いと私は思うのだ。

 

 いまの時代だからこそ、古い型のおとこが世に飛び出さなければいけないのだ。

 

 どちらになっても、私は平成17年に義竜会の看板を下ろし堅気になった。

 破門され、自然な流れで堅気になったのは、誰も読めなかった展開だろう。

 「人間万事塞翁が馬」というが、全くそのとおりだ。

 

 ・・・私は昭和30~40年代の素朴な時代が好きだ。

 そんな時代の格言として

   国の為なら血を流せ

   友の為なら涙を流せ

   家族の為なら汗を流せと云うのがある。

 

 この格言はニッポンという国が、高度成長期の波に乗るために必要な要素だったのである。

 

 私のことは、さておき話しを前に進める。

 

 先日、宝島社から盛力健児の「鎮魂」に続いて、また面白い本が出た。 

 山本次郎著の「むちゃもん」と云う本だ。

 

 私のブログが面白いなら、この本はそれ以上に面白いと思う。 

 この本を読んでの私の感想だが、色んな場面で勉強になった。

 

 でも悲しいかな、当時の時代背景が私には分からないのだ。

 それに登場人物の大半は死んでいる。

 これが残念だ。

 

 この本が、私の歳(20年前)に書かれていたなら登場人物も生存者が多く、もっとノンフィクションのリアリティーが目の前に迫り、気魄と迫力が倍増しただろう・・・ 

 

 いまの時代に、私が先駆けてページを開いたからこそ、盛力健児や山本次郎著につながったと私は自負している。 

 山口組への解散建白書と云うのは、昭和6年生まれの山本次郎元組長だったから書けたのかもしれない。

 

 私は暴力団の更生を指導する立場だ。

 因みに「鎮魂」を書いた盛力健児会長は昭和16年生まれで、私は昭和26年生まれである。

 

 ・・・単行本の「鎮魂」の表紙の顔では、盛力会長は目をつむっているが、去る5月22日発売の文庫本「鎮魂」では目を開けている。

  

 この目を開けた理由を盛力会長に聞いたら「華厳」と答えてくれた。

 要するに、日光東照宮の華厳(けごん)の滝での修行のことであろう。

 

 この奥義は、盛力会長の鎮魂を買って読めば解かると思う。

 文庫本書下ろしの「鎮魂、その後」は、更に一読の価値ありだ。

 

 余談だが、私は前に進んでも後ろに退くタイプではない。

 何事に対してでも、真っ直ぐが信条なのだ。

 

 だから私は12年半前、若い者より先駆けて相手のバットに飛び込んで行き、やられた。

 

 私はバクチはしない。

 金を賭けての勝負より、命を賭けての勝負が好きだからだ。

 私に文句があるなら、どこからでも攻めてくれば良い。