続 男の契り・更生編

アサヒ芸能に荒らぶる獅子を連載中・銀座のクラブで飲んでいた頃の溝口敦と竹垣悟
アサヒ芸能に荒らぶる獅子を連載中・銀座のクラブで飲んでいた頃の溝口敦と竹垣悟

 ヤクザの筋道と云うのは仁義を通すと云い、男の世界では一番大切なことだ。

 

 男女同権と云いながら、女が仁義を通すことは、あまり聞いたことがない。

 それだけ男には、体を張って家族や国家を守ると云う強い信念が必要なのだ。

 

 上山忠行が属した杉本組は、四代目竹中正久に連なる山口組では名門組織である。

 初代杉本組々長・杉本明政は、竹中組で若頭を務めた程の男なのだ。

 

 私が竹中組に入る前後に坂本義一と橘喜智雄が杉本明政に接触し、その後数回に亘って岡山県津山市の杉本組へ足を運び、竹中組に引っ張ったと云ういきさつがあった。

 私も同行した事があるので、その時のいきさつは良く知っている。

 

 杉本明政は元山陰柳川組に居たそうだが、その柳川組が解散して一本どっこの組織として津山に根を張り、強力な地盤を築いていた。

 

 山一抗争では、一和会幹事長補佐・赤坂進と、赤坂組々員・田中義昭を射殺したことで有名だ。

 

 二代目の杉本輝幸は、当時の竹中組々長・竹中武が直参に欲しかったのだが、杉本明政が輝幸は二代目を継がせる男なので、と云って手放さなかった男だ。

 

 赤坂進襲撃事件の実行犯二人は、その杉本輝幸率いる輝道会の若い者であったのだ。

 

 この二代目杉本組に入って上山忠行は、但馬に確たる地盤を築くべく、運転代行業の事務所にダンプカーを突っ込ませて、軽四輪車と事務所を損壊させた。

 

 そして捕(ぱく)られたのだが、留置所に居る時、杉本組の対応が事件を起こした上山忠行の行動を迷惑がったようである。

 そうなると上山忠行も組に迷惑を掛けたと悔み出した。

 

 こんな事ばかりしていたのでは自分自身の将来も描けなくなると思い、堅気になる道を選んだのだ。

 

 私は新聞を見てこの事件を知り、岡田隆二に「忠行はまた山口組に復帰したんか」と聞いた程である。

 その時、岡田隆二が始めて私に「忠行が指をとばして持って来た」と、その辺の事情を説明してくれた。

 ・・・話しを聞いて私は忠行らしい所作をしたと思った。

 

 そして岡田隆二に「忠行が堅気になるんやったら懲役に行く前にメシでも喰(く)いに行こう」と伝えさせた。

 すると忠行から私に直接電話があった。

 

 忠行は私に「親分すんまへん。長い指(もの)を短い指(もの)にして」と謝って来た。

 私は「そうやったんか。俺は堅気になってるのに、なんで指なんかとばしたんや」と答えるのが精一杯だった。

 

 忠行は一審の判決が下りたら控訴せず、そのまま服役すると云うので、判決日の前日に食事をした。

 

 ・・・そして一年の懲役を神戸刑務所で務めた。

 

 忠行が服役中、私とはずっと手紙の遣り取りをしていた。

 私は忠行には、何事にも辛抱することの大切さを指導して来た。

 

 この事件で山口組は、使用者責任を問われ提訴された。

 

 ・・・この後堅気で但馬に居たのだが、やっぱり血の気の多さは変わらず、酒場で喧嘩を売られたそうだ。

 結果、相手を殴り怪我をさせてしまった。

 

 そしてまた10ヶ月の懲役に行った。

 この懲役で、出所したら更生する為に姫路に嫁と一緒に住むと書いて来た。

 

 ・・・前刑を出た時タバコを止めたので今度は酒を止めると書いて来たのだ。

 私は無事故で務めたなら、姫路で面倒を見るので心して残刑を務めるように云った。

 

 出所してからだが、私の息子・竹垣祐介の会社で宮前篤理事長等と共に、真面目に仕事をしている。

 更生するとは上山忠行のことを云うのである。

 

 余談だが、上山忠行も憲治と同じで私の名前を千社札として躰に彫ってある。

 憲治の千社札と左右一対になるようになって居るから不思議だ。

 

 縁ありて 親子となりし 今日よりは 共に進もう 道ひとすじに・・・とは田岡一雄が好んで色紙に書いた短歌である。