男の契り・仁侠編

還暦の日、赤いチャンチャンコの代わりに朱赤で化粧直しした背中の一匹竜
還暦の日、赤いチャンチャンコの代わりに朱赤で化粧直しした背中の一匹竜

 私が五仁會を立ち上げ、暴力団は侠客になれと云って活動しているのは周知のとおりだ。

 

 私のこの活動が功を成し、今や六代目山口組も、三代目・田岡一雄時代に立ち上げた麻薬追放国土浄化同盟と云う関連団体を再興させ、仁侠ホームページまで開設したようだ。

 

 その趣旨が書いてあるので雑(ざっ)と紹介しよう・・・

 

 「田岡一雄三代目の偉業と日本の国土から麻薬を撲滅するという強い信念を引き継ぐため、新しいホームページを立ち上げた次第であります」と掲載されている。

 

 また昨年12月28日に挙行された山口組の餅つき大会も動画で紹介され、誰でも見れるというのだ。

 

 更に、動画のBGMで山口組の歌が流れ、国土浄化同盟の歴史と共に、侠客としての心構えや写真集まであった。

 

 また山口組本家近くの川の清掃活動をしている様子も収められ、我々NPO団体がして居る社会貢献の一環と何ら変わりはない。

 

 ・・・暴力団社会も様変わりし、私の云う仁侠道を目指しているのがこれを見てよくわかった。

 

 私が暴力団社会に対して訴えて来たことが着実に実を結んでいるのだと思うと、何だか清々(すがすが)しい気分だ。

 

 暴力団も侠客も根は同じで、その組織を引っ張って行く者の姿勢ひとつで善にもなり、また悪にもなるのである。

 

 縁があり竹中正久の盃を受け、私が率いた義竜会の墓に分骨を納め、戒名まで入れて供養しているので、私と竹中正久とは永遠(とわ)の契りになった。

 

 親分・竹中正久の戒名の横に、人は一代・名は末代と彫ったのだが、これは私の究極のテーマである。

 

 私の息子・竹垣憲治は私の墓を体に彫ったのだが、彫師に「親父(私のことである)が、まだ生きているので墓は具合悪いで」と云われ「墓」を「千社札」の大きなのに変え、躰に刻んでいる。

 

 私が義竜会を立ち上げて、間もなくして私の秘書室長だった金川憲治(平成8年2月23日没・享年48歳)の若い者として私所に来た。

 ・・・来た時から部屋住みとして私の側で修行させた男である。

 

 この憲治が部屋住みを上がり、シノギが無いので当時私がしていた競馬のノミ屋をさせたのだが、少し経って捕(ぱく)られた。

 

 その時の事件で憲治は執行猶予になったのだが、私は堅気にさせた。

 そして田舎の但馬に帰して居たのだが、また私を頼って但馬から出て来た。

 

 実家は但馬の香住だが雪の多い所で、鮮魚を運ぶ長距離トラックに乗っていたそうだ。

 

 田舎へ帰っている間に、ふたり目の子供が出来、名前を義竜会の「竜」と、私の名前「悟」を取って「竜悟」と名付けたと云うので、この子の私に対する想いは、私の許を去ったあとも変わらなかったのだと思った。

 

 そして、その思いが私には痛いほど伝わって来たのだ。

 

 そこで私の実兄の会社に行かせた。

 それが平成9年6月のことである。

 

 それから堅気として、もうひとりの息子・竹垣圭司と共に兄の会社で働いている。

 

 真面目にコツコツやって来たお陰で23年7月には家を新築した。

 

 ここで、もうひとりの圭司の事を述べてみよう・・・

 

 圭司は私の母の弟の子で、その弟も早く死んだので私を頼って来た。

 そして竹垣の姓を名乗りたいと云うので養子にした。

 

 あとひとり紹介しようか・・・

 

 この子は少年時代に殺しをして出所したあと、いま但馬で蕎麦(そば)屋をしている岡田隆二の若い者となり、私所に来た。

 このブログは実録なので差し支えない、きわどい範囲で実名を出すが、上山忠行と云う・・・

 

 この子は山口組が五代目から六代目になる前後に、傷害事件で実刑判決を受け刑務所に服役した。

 

 その間に私は義竜会の看板を下ろして堅気になったのだが、この子は出所時に5~60人が迎えに来ていたので、それらの人の前で「今後は義竜会発展の為に粉骨砕身頑張る所存であります」と挨拶してしまった。

 

 堅気になった義竜会の放免迎えに、思いの外沢山の人が来ていたので、私がきっと義竜会を再興させると勘違いしたのだと思った。

 

 そして、その挨拶を聞いて私は「この子はしっかりして居るので、山口組が放っておかない」と思った。

 

 案の定、山口組系二代目杉本組からスカウトがあり、杉本組でヤクザを再スタートするようになった。

 

 その時私も岡田隆二も堅気になっていたのだが、この子の侠(おとこ)としての性格が小指を飛ばさせた。

 そして飛ばした小指を岡田隆二のところへ持って来た。

 

 その時、上山忠行は「自分はヤクザしか出来ないのですんまへん」と云って小指を持って来たそうだ。

 

 今どき珍しい筋道を通す男なのである。

 

 この話しは一話では描き切れないので、またの機会に綴ることにする。