喧嘩屋・竹中正久軍団

 私はヤクザウォッチャーでは無いが、何となくこの言葉が気になったので辞書を引いてみた。

 そしたらウォッチャーとは観察者とか消息筋だと出た。

 

 成る程、私は今NPO法人として暴力団に更生を促して居るので、そう云う意味ではヤクザウォッチャーのひとりであるかも知れない。

 

 いくら日本の国が広いと云っても民間人で、それも元ヤクザの親分として名を知られた私が暴力団は侠客になれと云っているのだから世の中の流れと云うのは、おかしなものだ・・・

 

 私の場合、破門状を出される筋合いはなかったのだが、それでも破門状が出た。

 この時、ヤクザの盃と云うのは一体なんだったのだろうと思った。

 

 しかし人生何が幸いするか分からないのだ。

 

 その破門状一枚で私は現在、正義の旗振り役として社会貢献が出来る権利を得たのである。

  

 過去に私の様な立場で、暴力団は侠客になれと云って活動して来た人間は皆無だった。

 

 自慢話は誰も聞きたくないと云うが、それを敢えて承知で云うなら私ほど馬鹿な男はいないだろう・・・

 いい格好を云うが人を再生して行くのも、その人が持って生まれた宿命だと私は思うのである。

 

 そしてであるが・・・私には暴力団を壊滅させるだけが、人の道だとは思えないのだ。

 壊滅させる役目があって、また社会に居て更生させる社会制度も必要だと認識するからである。

 

 ・・・極道をして来た私がこの歳まで生きて来れたのは、これひとえに神仏の加護があったと固く信じている。

 

 その神仏に疎まれ、あの世に戻れと云われれば、私はたった今からでも黄泉(よみ)の国へ旅立つのだ。

 

 黄泉の国へ旅立つ前に、私の極道としての勲章をひとつ書いてみようか・・・

 

 私が竹中組に入った頃の話しだ。

 

 私が一番最初に盃を受けた親分が坂本義一(殺人事件で懲役10年服役)で、その兄弟分で同じ庄田の出身で橘喜智雄と云う極道が居た。

 竹中組では平尾光(姫路事件で懲役20年服役)と並ぶ、ごじゃもんで通っていた。

 

 この橘喜智雄は私が竹中組に入って暫く経って、同じのれん兄弟の光岡(通称ジョン坊)と云う竹中組々員に「こらジョン坊、オレは、お前と親父(竹中正久)は一緒やけど、お前とは兄弟分になった覚えはないぞ。オレに兄弟と気安く云うな」と息巻いて怒っていた。

 

 そして「オレは今まで懲役は12回行ったけどみんな傷害や。オレはお前とはチョット違うんやぞ」と云ってカマシを入れていた。

 

 こんな遣り取りがあって、このあと何年かして橘喜智雄は殺人事件の主犯として熊本刑務所で十数年を務めた。

 この人は生来が短気な人で服役中にも喧嘩をしたとかで、長期刑の上に刑が増え、最後は十五、六年務めて満期で帰って来た。

 

 この橘喜智雄が出所して来た時は、竹中組も山口組を出て一本どっこで細々とやっている頃で、結局この人は宅見勝の舎弟になり、宅見組の相談役として宅見組に参加したのだが、瀬古武と揉めて宅見組のカラーと合わず浪人になった。

 

 この瀬古武だが・・・

 同じ竹中正久の盃を受けて直参だったが、1971年7月に白竜会の長谷川智一と云う藤沢組若頭を殺し、殺人で長期刑を務めて1985年(昭和60年)秋に出所した。

 

 しかし帰って来ても竹中組に自分の居場所が無かった。

 そこで仲が良かった兄弟分の大西康雄の所にわらじを脱いで、客分のような感じで大西組に居た。

 

 そして翌年また懲役に行った。

 

 この瀬古と橘喜智雄が1996年(平成8年)頃だったか、姫路の繁華街・魚町にあるローソン前で揉めたそうだ。

 瀬古も凶気のあるトッパな男で、竹中正久の薫陶を受けて部屋住みを大西康雄と共にして居た男なので、喧嘩根性もあり行き腰もあった。

 

  こんなふたりのド根性が激突した。

 そして、橘喜智雄が瀬古武に拳銃を付きつけられて少しひるんだそうだ。

 

 その一瞬のひるみが、武闘派としての橘喜智雄の極道生命を損壊させた。

 

 後日譚だがこの後、瀬古武と喧嘩をすると宅見組本部に談判したそうだが、喧嘩をするなら宅見組を出てひとりでするように云われたので、橘は「こんな喧嘩も出来ない組に居れるか」と云って宅見組を出たと云っていた。

 

 そのあと私所に来て「会長(私のことである)オレを若い者頭にしてくれ」と云って来たのだ。

 「宅見の代紋に対抗出来るのは、姫路では会長の所(中野会)しかない」と云うのである。

 

 私はこの時、橘喜智雄を若い時と同じように叔父貴と呼んでいたので「叔父貴、何を云うてまんのや。俺が叔父貴を若い衆にしたら皆に笑われまんがな」と云って、若頭にさせろと云う話しは断ったのだが、そのあと岡山の竹中武と相談役の竹中正に相談したらしく「それやったらサトルの舎弟にしてもらえ。そして会長代行にしてもろたらどうや」と云われたと、私の所へ来た。

 

 この人は背は低かったが、姫路のごじゃもんの代表みたいな存在だった。

 姫路のヤクザの中で、若い頃から私を認めてくれて居たひとりなのだ。

 

 私は、この人が長期刑を帰って来た時、すでに姫路でトップクラスの親分になっていたが、この人に対して私は先輩として、また私の親分であった坂本義一の兄弟分として叔父貴と云って立てて物を云った。

 

 その時、橘喜智雄は私が「橘」と呼び捨てにしたら「オレもサトルと呼んでやろう」と決めて居たが、私が叔父貴と呼んでくれたので、オレは「会長」と自然に呼ぶことが出来たと云ってくれた。

 

 私はこの橘喜智雄にも若い頃、よく可愛がってもらった。

 私が若い頃、尊敬し憧れたヤクザのひとりが橘喜智雄であったのだ。

 

 これも今となっては懐かしい竹中組時代の話しである。