我が心の盟友・溝口敦と云う男・・・

 いつもの様に本屋に行って、本棚に並んで居る本を見て居たら「溝口敦著・溶けていく暴力団」と云う新刊が目に留まったので買った。 

 (買ったあと直ぐに、溝口敦本人から本は恵贈頂いたのだが・・・)

 

 手に取って見ると「常に反社会的勢力と対峙してきた著者 半世紀の集大成!」と、帯に書いてある。

 

 そして「暴力団が没落した後、ウラ社会はどうなるのか。(略)本書では日本独自の組織犯罪である暴力団がなぜ、どのような経過を辿って消失の途に入ったのか、次に来る日本の裏社会ではどのようなグループが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)することになるのか、などを探りたいと考えている」と、裏帯に銘打ってある。

 

 第五章109ページには「姫路のNPOの奇跡」と見出しがあり「五仁會」のことが書いてあった。

 

 溝口敦が一旦、五仁會の事を書くと云ったら絶対吐いた唾は飲み込まない男だと改めて思った。

 

 流石(さすが)暴力団取材の第一人者を自認する著者・溝口敦だけの事はある。

 これ程「現在の暴力団事情」を端的に表わした本も他に無いだろう・・・

 

 「五仁會ブログ」ファン必読の書である。

 

 私のブログと、この「溶けていく暴力団」を読み込んで行けば、私達がこれから先の時代をどの様に捉えて居るか、時代の変遷(へんせん)と共にウラ社会の凋落が、より深く理解出来ると思うのだが・・・

 

 ・・・話は変わるが男と云うのは、誰しも自分の器量で物を云いたがる生き物だが、そこをメリハリ付けて教育して行くのが社会の役目と云うものだ。

 

 器量の無い人間を「大将」にすると、下の者が苦労するからだ。

 

 私は竹中正久と云う「日本一」になった親分と時代を共有して来たが、それだけに男としての色んな所作を見て来たつもりだ。

 

 これからだが、私に与えられた宿命が人を育てる事だと思い、これを実践して行きたいと思って居る。

 

 だから私は、肩書きに相応しい人に育てる為に、極力相手を「肩書き」で呼ぶようにして来た。

 猫も杓子(しゃくし)も「さん」付では、まるで刑務所の中と同じで、相手に敬意が伝わらないと思うからだ。

 

 処で、今から次元の違う話しをするが・・・

 私が人を育てて行く上での持論だが、人間の心の幅(器量)と云うのは、三歳までの「赤ちゃん」時代に作られると思うのだ。

 

 「三つ子の魂百まで」と云うのは、三歳までは何をしても怒らず、伸びやかに育てて行く事だと、私は「子育て」の中で、孫むすめの一花を育てて見て思った。

 三歳を過ぎてから「しつけ」をして行く事が「おおらか」で「のびやかな」子供に育てる第一条件だと今、実感中なのだ。

 

 その一花も今年の春、小学2年生になった。

 

 嫁と娘が一生懸命、毎日子育てで奮闘中だ。

 

 一花には学校から帰って来て、1時間は宿題をさせて居るようだ。

 私は余り勉強すると「父(とう)ちゃん(私のことである)より賢くなるから勉強したらアカンで」と云うのだが「いや、父ちゃんより一花は賢くなる」と云って楽しそうに宿題をして居る。

 

 この一花が幼稚園の時、父親が居ないので私が父親がわりに運動会のリレー競争に出た事がある。

 

 マイクで各選手を「保母さん」が紹介するのだが、皆んな「誰それのお父さん」と云って居たが、私の場面が来て、更に大きな声で「竹垣一花ちゃんのおじいさん」と紹介されてしまった。

 

 この幼稚園では私の歳(とし)で、駆けっこに出る人は誰も居なかったのだ。

 私は先ず、そこで苦笑されてしまった。

 

 リレー競争が始まり、私が思いっきり運動場のコーナーを曲がろうとしたその時「あのおじいさん、ここで転(ころ)ぶで」と云う声が声援と共に私の耳に聞こえて来た。

 

 私は生来の負けん気が頭を擡(もた)げ、その声援に応えるべくスピードを上げ激走した。

 

 遅くても、転んで笑われるより「マシ」だと思ったが、私がもし転んだら、運動場の真ん中で三回転ぐらいして転んでやろうと思い、力一杯走った。

 

 男が転んで怪我をする事を嫌(いや)がって居ては、武士道精神等と偉そうな事は云って居れないのだ・・・

 

 新撰組の近藤勇や土方歳三が、命を惜しんでチャンバラをしないのでは話しにならない。

 私は何事に於いても後ろを振り返らない主義である。

 

 勝負等、負けて元々だと考えて居るからだ。