三千世界のブルース

この映画のロケ中、宝塚ファミリーランドでの撮影があり、若山富三郎達の乗るコーヒーカップの横に、私が乗って居たカップが回り、また別のカップに同じ大部屋で若山富三郎の付き人をして居た先輩の泉福之助が乗って居るのが今となっては懐かしい。
この映画のロケ中、宝塚ファミリーランドでの撮影があり、若山富三郎達の乗るコーヒーカップの横に、私が乗って居たカップが回り、また別のカップに同じ大部屋で若山富三郎の付き人をして居た先輩の泉福之助が乗って居るのが今となっては懐かしい。

 今日は少し趣向を変えて、東映ファンの為にペンを進めて行こうか・・・

 

 私が東映東京撮影所の大部屋に「石倉三郎」や高倉健の付き人をして居た「青木卓司」達と一緒に居た事は以前、どこかのページで書き綴って来た。

 

 その頃、渡瀬恒彦が歌って居た「ブルース」が、なぜか遠い記憶を呼び戻すように思い出されるのだ。

 

 三千世界の祭りに酔うて

 男命を咲かせたい

 夜空真っ赤に花火が散れば

 乱れ咲きだよ おとこ花・・・

 

 この唄を今ごろ「口ずさむ」私はやっぱり古い人間なのだろうか・・・

 

 ・・・私が東映の大部屋に入った頃、すでに渡瀬恒彦はスター街道を驀進中だった。

 

 この渡瀬と東映東京撮影所に入って少し経った頃(確か中山仁主演「ブラックチェンバー」と云う題だったと思うのだが)テレビ番組で伊豆・箱根ロケがあり、一緒になった事がある。

 

 旅館の電話が置いてあるカウンターで、渡瀬が受話器を片手に誰かと「しきりに」話しをして居た時のことだ。

 

 そのドラマを演出して居た監督が通り掛かったのだが、その監督には目もくれず受話器に向って話し続けて居た・・・

 

 その態度を見た私は流石、渡哲也の実弟だと思った。

 人には媚びずとは、この渡瀬のような男の事を云うのだと思った。

 

 この渡瀬と、そのあと直ぐ旅館のバーのカウンターで一緒になったのだ。

 

 その時私は、姫路から東映東京撮影所に一緒に入って居た諸石秀夫と雑談中だった。

 もちろん諸石は、私と同じ大部屋に所属して居た。

 

 ふたりが話す関西弁を聞いて、渡瀬が私に向って「先輩は関西なんですか?」と聞くのである。

 天下の渡哲也の弟の、それも当時から主役を張って居た渡瀬恒彦が、大部屋風情(ふぜい)の私に「先輩」と云うのである。

 

 こう云う何気ない所作が、スターになる「男の所作」なのかと感動した。

  

 もちろん私はこの時以来、渡瀬恒彦のファンになったのは云うまでもない。

 

 スターへの階段を昇るとは、こんな所に秘訣があったように思うのである。

 

 私もそれを見習い、こう云う所作が身に付いて居れば、若山富三郎の付き人として京都で活躍して居たかも知れない・・・

 

 そう考えると、幼稚だった自分が恥ずかしい限りだ。

 その時もう少し知恵があれば、その後の私の人生も変わって居ただろう・・・

 

 私が東映東京撮影所を辞めて暫く経って、京都撮影所の演技課(ジム)に電話して「若山富三郎」のスケジュールを聞いた時のことだ。

 

 その時、伊豆・三島のスカンジナビア号と云う「船上ホテル」に大木実達と宿泊中で「舶来仁義・カポネの舎弟」の撮影(ロケ)をして居る最中だと云うので、伯父の友人だった佐藤昇の車で三浦某と三人で、伊豆・三島に若山富三郎を尋ねて行った事がある。

 

・・・若山は私の顔を見るなり「タケ、何しとんねん。こっちへ来い」と手招きをしてくれ、それから佐藤昇達も一緒に船上のテーブルに座った。

 

 そして私に(東京撮影所を)辞めたのなら「京都の俺の所へ来い」と云ってくれたのである。

 

 丁度(専属の)付き人が辞めたのでマンションの一室が空いて居ると云って居たのだ。

 

 私は有り難くその言葉を受け、若山富三郎に付いて行こうと思った・・・

 

 この時は、まだロケの途中で、3日程各地でロケをして京都撮影所に帰ると云うので、佐藤昇達には先に帰ってもらい「私ひとり」がそのまま残って、若山富三郎一行に交じって各地のロケに付いて行った。

 

 そして京都で若山富三郎に世話になる前に、同じ「若山一家」だった「志賀勝」にその旨の報告を兼ねて挨拶をしに行った。

 当時、志賀勝は太秦(うずまさ)の実家に住んで居た。

 

 この志賀勝には飲みに連れて行って貰ったり、自宅に泊めてもらって三日三晩世話になった事があるのだ。

 

  そうこうして居る内に一緒に住んで居た女が、京都へ行くのは「イヤだ」と云い出した。

 そんな訳で結局、私は京都へは行かなかった。

 

 それから少し経ってヤクザへの道を進んだのだった・・・

 

 これは今となっては痛恨の極みである。

 

 今考えるとこの時が、私の人生にとっての岐路だったように思う。

 

 この歳(とし)になって馬鹿な道を選んだものだと、つくづく後悔するのだ。