竹垣悟の極道談義・四代目山口組の終焉(しゅうえん)

写真左から私の兄弟分だった前田寿一。次が藤田光一、間を置いて竹中武。右隣が筆者・竹垣悟。四代目竹中正久組長の墓前に向かう一葉。週刊アサヒ芸能提供。
写真左から私の兄弟分だった前田寿一。次が藤田光一、間を置いて竹中武。右隣が筆者・竹垣悟。四代目竹中正久組長の墓前に向かう一葉。週刊アサヒ芸能提供。

 岡山(竹中武組長)が山口組を割って出ると云った時の竹中組幹部会の様子を話してみようか・・・

 

 当時若頭補佐をして居た宮本郷弘(大阪在住・平尾光舎弟)が、幹部会の席で「ここまで山口組の為に戦って来て、なんで今になってわしらが貧乏くじを引かにゃならんのよ」「幹部一同指を詰めて、親分(竹中武)の所へ行って山口組に残ってもらおう・・・」と発言したのだが、その言葉のあとが続かなかった。

 

 今考えると、宮本郷弘の言葉に「そうだ」と相槌を打つべきだったが・・・

 

 竹中正久四代目が実現するまでには色んな組の協力があった。

 

 一和会に行かず山口組に残った組は、竹中正久四代目の実現に労を折ってくれた。

 まして「四代目竹中正久の仇討ち」をしてくれた組が沢山あった。

 

 ・・・竹中武の場合、その恩を忘れず謙虚な気持ちを持つべきだった。

 兄貴が四代目になれたのは皆のお陰だと感謝の気持ちを持つべきだった。

 そして誰が「五代目」になっても自分の個人的な意地は捨てるべきだった・・・

 

 山口組があっての竹中組「だった」と云う事が解ってなかった。

 

 竹中武が唯ひとつ解って居たのは「竹中正久」が「竹中組」を継がせたかったのは、姫路戦争で懲役20年の判決を受けて服役した「平尾光(ひろし)」だったと云う事だ。

 

 だから「竹中武」は「平尾光」に遠慮して「二代目竹中組を名乗らなかった」

 

 この裏話は私が5年余りの懲役を帰って来て少し経った頃、竹中武の子飼いである「藤田光一」が云って居た。

 

 この藤田光一は、もう死んでしまったが「高山一夫」の事を陰でよく応援して居た。

 「かずさん(高山一夫)が可哀相なんじゃ」と、高山一夫が竹中組を放り出された後、この言葉をよく云って居た。

 

 藤田光一も姫路戦争では松浦敏夫とコンビを組み懲役に行って居るので、同じ竹中組の為に体を張った「高山一夫」が不憫だったのであろう・・・

 

 私はこの藤田光一とも仲が良く、岡山竹中組の事は色々聞いて居た。

 

 私が懲役に行って居る5年余りの間に、竹中正久時代の「竹中組カラー」が消え「竹中武カラー」が全面的に出て居たそうだ。

 

 竹中組の中でも「竹中正久」の子飼いの者とは距離があり、結局は「岡山竹中組」が「竹中組」を吸収したようになった。

 

 竹中組のいわば旗本クラスと気心が通じ合ってなかったのは、ヤクザの親分としては失格であろう・・・

 

 余談だが・・・

 山口組と云う名の下(もと)に、古参の功労者を何かあったら斬り捨てると云うのは今も昔も変わらない、ヤクザ組織の二代目としての器量の限界だろう・・・

 

 器量の限界が、そうさせるのだろうと私は思うのである。

 

 本来、先代の舎弟と云うのは、仮に若頭が跡目を継いだら「叔父貴筋」に当たるので、余程器量不足でない限り「相談役」なり「顧問」にするのが「ヤクザ渡世」の筋と云うものである。

 

 それを窓際に追いやり、ひどいのは伝家の宝刀を抜くが如く「破門状」を出す。

 

 三代目田岡一雄の山口組々員に対する姿勢は、世間からはみ出した者が家族としてひとつになり肩を寄せ合って生きて行く、いわば親睦団体のようなものであると云って居たように記憶して居るのだが・・・

 

 ここで話しの核心を衝く・・・

 

 私は昼の12時丁度に「名月赤城山」と云う歌謡曲が掛かる様にスマートフォンをセットして居るのだが、この歌ほど私に哀愁を抱かせる唄はない。

 

 本来は東海林太郎が唄って居るのだが、私は「美空ひばり」の「名月赤城山」を聴いて居る。

 

 侠客として知られる「国定忠治」も最後は哀れだった。

  

 ・・・カラオケの画面で流れる辰巳柳太郎扮する国定忠治を見て、私の心に色んな「侠客像」が去来する。

 

 結局、暴力団が侠客になって「世間の支持」を集められても最後は哀れだと云う事か・・・

 

 こんな事を考えて居ると所詮「人間の世界」と云うのは「儚い世界」だと思う。

 

 軍師・黒田官兵衛の親分で、天下人と云われた豊臣秀吉の辞句 「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢・・・」とは侘しい言葉である。