暴力団が侠客になれないのは、会費が払えない組員が居るからだと云う。
自分の会費も払えないのに暴力団組織に居るのは、仕事嫌いの「ぐうたら人間」でしかない、と私の友人は云うのである。
「考えてみんかいな」
「ほんまに男としてのプライドを持っとったら、人に隠れて仕事をしてでも会費は払うで」
「そんなもん会費も払えんとってからに、何が男の世界や」
「違うか?」
私は尤(もっとも)だと思った。
断っておくが私が現役の時は、会費の払えない若い者の負担は私がして居た。
事務所の家賃を含めて義竜会の経費の足らず分は、私が身銭を切って補充して居たのだ。
親分と呼ばれて居たので当たり前の話しだが、私の上部団体への「会費」や「義理事」の金も全て私が自分の金で払って居たのである。
しかし私が現役の頃と、今は世相が丸っきり違う。
抗争事件を競って起こして居た時代には「ヒットマン」が必要だったので、抗争用の組員を会費なしで確保して置く必要が有ったが、今は平和共存の時代だ。
使用者責任に問われた時、各組員がいくら負担出来るかの時代になった。
アメリカ並みの今より高額な賠償金の支払い「判例」が出れば、たちまちその組の当事者は「ドボン」と沈み人生の落伍者になる可能性がある。
それがイヤで五代目は休養宣言の挙げ句、引退に追い込まれたと云っても過言ではないだろう。
使用者責任とは、それ程重いのである。
話しを傾けて進める。
田岡一雄三代目組長は「組員に正業を持て」と云って来た。
今やその「正業」すら持てない時代になったのである。
私はヤクザ渡世には、義理と人情の世界が点在して残って居る様に思う。
だから暴力団は侠客になれ、と声高に叫ぶのだ。
組織とは明確なる方針を持って存在するものだが、その明確なビジョン(将来への展望・計画)が描けない反社会的集団なら、日本国民としての権利は主張出来ないのだ。
時代を先読みして、組織の衣(ころも)替えをする事も時代の要求ではないだろうか・・・
暴力団組織が「侠客一家」になるのは、むかしの東映映画を見て居るようで「痛快」ではないか。
昭和時代に憧れた東映映画の「侠客」がスクリーンを飛び出して現存すれば、どれだけ楽しい世の中になるか・・・
日本と云うのは狭い島国である。
小さい島国で、アメリカの広い国土に居るマフィアのように地下に潜る事は不可能なのだ。
否(いや)、火山国の日本には地下が無いと云った方が正しいだろう。
人生の成功者となるには、日本人は名誉を重んじる「武士道精神」が根底にあるので、どうしても「陰でコソコソ」と云う生き方は出来ないのだ。
犯罪組織なら地下に潜(もぐ)って仁義を切らずとも、少しの間なら窮屈だが存在出来るであろう。
しかし長期的展望に立てば、そんな犯罪集団が社会に受け入れられる筈もないのだ。
ここは日本国民にとって、官民双方の正念場である。
「明るく住み良い街づくり」とは善良な市民が、善良な人に支えられて生きる「街」を作って行く事なのだ。
人間は教育次第でどんな思想でも育むことが出来る生き物だと云う。
「活字を読む」と云う事は「時代を読む」ことにも繋がる。
幸い私のブログは、普段本を読まない人が結構読んでくれて居ると聞く。
私如きの駄文を、貴重な時間を割いて読んで頂けるのは、書き手「冥利に尽きる」ものだ。
学(がく)の無い私が、見識者である「あなたに」上段から言葉を振り下ろすようで申し訳ない。
「釈迦に説法」をして居ると思う時があり、それが長じて私の心に暗い霧を立ち込めるような気分になる事もある。
そんな場面では、いくら豪気な私でも冷や汗をかいて居るのだ。
人間の煩悩とは、仏になるまで消えないものだとつくづく思う・・・
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湯郷 (土曜日, 22 6月 2013 15:32)
始めまして
同じ竹中組の前田(若中)和美さん
のお話しを聞かせてくれませんか
私にとってヒーローでした
今でも…
私がまだガキだった頃に竹中の親分さんが
遊びに来たのを良く覚えてます
竹垣 悟 (土曜日, 22 6月 2013 18:03)
岡山県作州の湯郷さんですか・・・
電話は非通知以外出ます。
ヒーローの話しでも訊かせて下さい。