暴力団時代に男泣きしたこと

我が家の庭に鎮座する阿修羅地蔵尊の由来
我が家の庭に鎮座する阿修羅地蔵尊の由来

 男の人生には、時には越えなければならない山場がある。

 「人生峠」と云った方が分かり易いかも知れない。

 

 私がその人生峠(とうげ)を越したと思ったのは、五仁會の認可を兵庫県庁舎で受けた時である。

 この時の感慨と云うのは筆舌には尽くしがたいものだ。

 暴力団組長だった時代は刑務所の門を潜(くぐ)った瞬間に、もう次に来る時を考えなければならなかったからである。

 

 今度は胸を張って「社会正義」を胸に秘めた人物を集められるのだ。

 暴力団の組員を集めるのとは訳が違うのである。

 

 私が求める人材は、勉強が出来なくても「努力家」なら良い。 

 頭が悪くても「素直」で「正直」であれば良いのだ。

 人の為に「馬鹿になれる」人間なら大歓迎である。

 

 私の持論は、温かい家庭に育ち頭が良かったらヤクザなんかして居ないと云うものだ。

 賢かったらヤクザを利用して金儲けをする方に回るからだ。

 

 誰が刺青(いれずみ)を入れたり、指を詰めたりするものかと思うのだが・・・

 

 ヤクザとは一言(ひとこと)の重みで指を詰めたり、刑務所に入ったりするのである。

 そう云う面を考えると、堅気の人間の方が狡賢(ずるがしこい)人間が多いように思う。

 

 皆んな堅気になったら世の中全体が、キツネとタヌキのポンポコ山になってしまう。

 そんな社会の到来は、何を置いても阻止しなければならない。

 

 その為にも、私は日本国民として「徴兵(ちょうへい)制度」を作るべきだと思う。

 社会人としての規律と人間関係の基本を「徴兵制度」の中で教えたり学んだりするのだ。

 その徴兵たちが、世の為・人の為にボランティア活動をすれば良いと思って居る。

 分かり易く云えばボーイスカウトの様な存在を、軍隊の中に国が作って行くのだ。

 

 私は五仁會を設立してみてつくづく思う事がある。

 

 私に刺青(いれずみ)が入って居るのは消しようの無い事実だ。

 その分だけハンディキャップを背負って居るが、そのハンディ分だけ頑張れば、世の中を明るく夢の有る社会にして行けるのだ。

 

 私は、いま元暴力団組長として、暴力団員を更生させようと努力して居る。

 云わば「前人未踏」のジャンルを歩(あゆ)んで居る・・・

 その私も人より若いと云われるが所詮(しょせん)62歳の「地獄」へ行きそびれた男だ。

 この歳なので「青雲の志し」を立てるのは遅かったが、私の志しは今だに進行形だ。

 

 私は晩年に花を咲かせる遅咲きの「運命線」が手相に出て居ると云われ続けて来た。

 成る程、掌(てのひら)の真ん中にピシッと上に向かった線が一本ハッキリ出て居る。

 

 私は自分が持って生まれた星の下で暴力団員を更生させ「暴力団は侠客になれ」と云って運動もして居るのだが、時々こんな事で良いのかと自問自答する時がある。

 

 暴力団員が更生して、世の為・人の為に頑張っても世間の目は冷たいままなのだろうか・・・と。

 

 安部総理の夫人が、元暴力団組長が主催する動物愛護団体の名誉顧問になって居るのを、どこかの週刊誌が如何にも悪い事の様に書いて居たが、更生と云う分野ではこんな記事を書く事自体許されて良いのかと思う。

 この記事を書いた人には悪いが、これは人として悲しいことである。

 私はこう云う記事を見ると、ペンの暴力と云うものをすごく感じる。

 

 我々五仁會は、元暴力団員や犯罪者に対する偏見による差別への人権擁護を行なう団体でもある。

 

 私は弁護士資格はないが、社会正義の為の民事訴訟なら法廷で闘っても五分で戦える自信はある。

 民事訴訟法第185条「事実認定は裁判官の自由心証にまかせる」とあるからだ。

 

 私は1999年に京都刑務所に服役したと同時に、血の滲(にじ)む様な思いで六法全書と向き合って来た事がある。

 当時、塩町の繁華街のど真ん中に住んで居たのだが、その家と事務所を同じ山口組系の、今私が住んで居る坂元町に事務所がある暴力団組長に地上げされ、明け渡し請求事件を起こされたからだ。

 この裁判には流石の私も参った。

 

 相手が同業者の暴力団組長で、私が刑務所に入るのを見計らってからの訴訟だったからである。

 

 私はこの時、或る誓いを立てた。

 

 「・・・・・」

 

 歌舞伎で云うなら、これが私の大上段に構えて云う「大見栄」である。

 

 何の因果か知らないが、この男は「跡目」を譲ってもまだ暴力団員のままである。

 この男の生き様を見ていると、つくづく出所進退は誤りたくないものだと思う。

 

 私が「仁義なき戦い」のように実名を出さないのは、武士の情けである。

 その情けもいつかは消える。

 それが、人の世の因果応報と云うものである。

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コメント: 1
  • #1

    次郎 (水曜日, 12 6月 2013 22:53)

    もう 個人レベルで 声を 上げていかないと
    いけませんね。