仁侠道と云うのは思いやりを持った侠(おとこ)の道なのだが、昔の映画の題名を見ると、ほとんどが任侠道となっている。
「仁」と「任」では本来活字の持つべき意味が大きく異なって来る。
手許の辞書を牽(ひ)くと「仁」とは「他者への思いやり」とあり、「任」とは「自分に任せられた役目」とある。
私は「仁侠道」とは「思いやりを持った男の道であり、弱きを助け、強きを挫くおとこたち」の事を云うのだと思うのである。
「任侠道」と書けば、本来の意味が違って来るからだ。
江戸時代ならヤクザの親分が十手取り縄を公儀から預かって、二束のわらじを履く人が居たので、任と云う字も当てはまるのだが・・・
なぜ、こんな本来持つべき意味と違う字が使われて来たかと云うと、日本人には天皇陛下に対する畏敬と云うものがあり、当時の文化人は天皇陛下に遠慮して「仁」の字を使わなかったと(映画史だったと思うが)物の本に書いてあった。
歴代の天皇には、明治天皇の「睦仁」を例に取るまでも無く「仁」の字が使われてきたからである。
私が「仁」と云う字が好きなのは、高倉健の演ずる仁侠道に憧れたからであり、昭和天皇(裕仁)を畏敬して来たからだ。
だから私の息を吹きつけた会社が「永仁」だし、五仁會の由来は以前述べたのでここでは省くが、いずれも「仁」の字を奉戴して居る。
関係ない話だが、田岡一雄の戒名も「永」と「仁」の諡号(しごう)が付いている。
今回はこの「仁」と云う字にまつわる「おとこの流儀」を書いてみたいと思う。
私が見て来た良い若い衆と、ろくでもない若い衆の違いを一言で云えば、他者への「仁・おもいやり」を持った「侠・おとこ」であるかどうかだ。
他者に対して「おもいやり」を持った「おとこ」を良い男だとするならその反対が、ろくでもない男である。
先ず、連絡が付かない者・これは男として致命的な欠陥人間だ。
「いざ」と云う時に役に立たないし、急な話しに対応出来ない社会的にも丸っきり信用されない人間と云えよう。
時は、刻・一刻と秒刻みに動いて居る。
動いて居る分、情勢や人の心も変わって行くのである。
本当に用事がある場面に出くわしても尚連絡が取れない奴は、運が悪い奴と云おうか、男としては門外漢だ。
相手を嫌って受話器を取らない小心者も時には居るが・・・
連絡が取れない奴は、横着でどうしようもない奴ばかりなのだ。
こんな人間は、心の中のどこかが狂っているとしか云えない。
次に金にだらしない奴、これも人間性を疑う。
人の信用を裏切る奴は、私はとんでもない奴だと思う事にしている。
これは同義語だが「約束を破る奴」これも私には許せないのだ。
全ての人間関係は約束事から始まるので、私は下手な約束はしない事にして居る。
約束をしない事が、約束を破らない最良の方法であるからだ。
「吐いた唾は飲み込まない」と云うことは、何事に対してもすごく大事なことなのだ。
むかしの武士(さむらい)は、常々「武士に二言は無い」と云って男の生き様を貫き通して来たのである。
仮に約束事が守れなければ、素直に腹を斬らなければならないからだ。
ヤクザなら指を詰めるか丸坊主にして、悔悛の情をどこまで示すかである。
一旦、自分の口から出た言葉は「男として」どこまでも自分で追い掛けて行って、実行しなければならないのだ。
私は何事も自分に「非」があると思ったら、自分の非を撤回して前に進んで行く質(たち)である。
「過ちは改めるに如かず」であり、何事も「潔さ」さえあれば道は拓けるからだ。
男の意地とは命を賭けて張り通さなければならない事もあるが、つまらない面子にこだわり物の本質を見誤まる狭い了見は、素直に撤回するのが男と云うものだ。
むかしから男は度胸・女は愛嬌と云われて来た。
私はこの言葉を、ずっと継承して行きたいと思って居る。
男が男であり、女が女であり続けるために・・・
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西 (水曜日, 29 5月 2013 18:28)
電話の話、お金の話、約束の話、その通りだと思います。
普段自分は、時間にルーズなことはしないように
待ち合わせよりも15分早く着くように心掛けています。
人からの信用を勝ち取るには、こうゆう事の積み重ねが大切ですよね。
良い話を聞かせてもらい、ありがとうございました。