やさぐれ小唄

義理や人情に憧れた、昭和50年代半ばの竹垣悟
義理や人情に憧れた、昭和50年代半ばの竹垣悟

 ヤクザなるなら堅気になれと可愛いあの子が泣いて云う。

 だけど俺らは堅気にゃなれぬ。

 ヤクザ渡世に義理がある・・・

 

 若い頃、この「やさぐれ小唄」を口ずさんで、いっぱしの男を気取ったものだが、いま考えると若気の至りと云う奴で恥ずかしい限りだ。

 

 ・・・遠いむかしの、あれは私がまだ24~25歳の頃、ヤクザとして駆け出しの頃だったか・・・

 私には19歳の時から8年間一緒に生活して居た女が居た。

 この女が「堅気になって二人で野師(露天商・テキ屋)でもしよう」と私に云ったのである。

 昭和50年前後の話しだが、この女の姉ムコが当時姫路一のテキ屋(木村組四代目・ゆかた祭り等を仕切って居た)の親分だったので、そんな事を云ったのだが、私は自分の生き様を貫いた。

 

 初犯(26歳)の時には、この女とまだ一緒に生活して居たので内妻として神戸刑務所に面会に来てくれたのだが・・・

 昭和52~53年頃は、4級者でも週1回の面会と手紙の発信が可能なモデル刑務所だったので、もちろん面会も手紙も欠かさず呉れたのだが、結局この女とは私が刑務所を出て少し経ってから別れた。

 

 出所する時の様子は、中に居る親分・竹中正久の耳に入るであろうと思い、戦闘服に竹中組の法被(はっぴ)を着て「田岡一雄自伝」を思い描き「迎えに来た女とは一緒に帰らず」坂本義一の車に乗り込み迎えに来て居た組員達には男とは「こうだ」と虚栄を張って刑務所を後にしたのである。

 坂本が、初犯当時は私の親分であり、一応「坂本会」の抗争事件だったからだ。

 

 女は自分の弟に車を運転させ、女の親友と3人で迎えに来てくれたので、私がてっきりその車に乗って帰ると思ったらしく、先ずそこで「懲役を待ってくれた女をガッカリ」させた。

 優先順位が女より竹中組だったからだ。

 

 今考えると、私の帰りを一日千秋の想いで待ってくれた女心に対して、男の道を真っ直ぐ歩く事しか考えてなかった「バカな男」だったのである。

 

 ・・・私はこの時、大崎組とうちの坂本会の若い者、岩崎正信がトラブルを起こし、その際私に岩崎から応援の電話が入り坂本義一の実弟(勇)達と現場に駆け付けたのだ。

 

 そして私は竹中組々員として「親分の教え通り」当然イケイケぶりを発揮して、勢いに任せて相手を木刀で思いっきり殴った。

 それを合図に家の中で様子を窺(うかが)って居た、私が殴った男の兄達が家から飛び出し、お互いそこで激しい乱闘になり、私は日本刀で頭を斬られ、胸を刺されたりして怪我をしたのだが、私も相手を同じ様にバシバシやったので結局喧嘩に加わった者は全員逮捕され、喧嘩した当人同士は執行猶予になった。

 

 私は助っ人だったが先に手を出したと云う事で、情が悪くなり実刑判決を受け懲役に行ったのだ。

 女に云わせると私の様なトッパ者は、また今度いつ懲役に行くか判らず、その度に苦労するので「堅気」になるか「別れる」か、ふたつにひとつ選べと云うのである。

 私は若い頃から一旦こうだと決めたら真っ直ぐ行くタイプで、ヤクザをした時から「道はひとつ」だと決めて居たので、この女が云う「堅気」にはなれず、アッサリ別れた。

 

 そして暫く経って、5年(未決通算を引き3年半)の懲役に行った。

 この懲役では独り身の気楽さで、娑婆に未練を残すものは何もなく、プラス思考で云えば案外楽しかったのである。

 

 この5年の懲役の間に「辛抱」と云う字の大切さを、身を以って覚えた。

 そして何よりも「今日の我れに明日は克つ」と云う、美空ひばりの座右銘に触れ、男としての生き様と向上心の発揚に努めた。

 

 刑務所で修養した分、男としての味わいも風格も深まると書いてあった安藤昇のエッセーに触発されたのも事実だ。

 

 刑務所とは極端な話し「心構え」ひとつで男を磨く砥石となるのである。

 私は5年間の懲役で兎に角、人に認めて貰える人間になろうと朧(おぼろ)げながら目標を定めた。

 

 そして竹中正久の子分として、恥ずかしくない「人格」を身に付けようと努力した。

 私が持った親分が出世して行く中で、子分である私自身もその人に相応しい侠(おとこ)にならなければ娑婆に出た時、他のライバルになるであろう組員に遅れを取ると思ったからである。

 

 獄中でも、私はこんな事ばかりを考えて居たのだ。

 現在(いま)私は、暴力団員や犯罪者を更生させる位置に立って居る。

 時代の変革期だと云ってしまえばそれまでだが、それにしても「男の人生」とはおかしなものだ・・・

 

 幕末もきっと、今の世の中と似た風潮で激動の時代であったのであろう。

 「勤皇の志士」や「新撰組」が活躍したように・・・

竹中正久より竹垣悟への手紙
竹中正久より竹垣悟への手紙

 親分・竹中正久は巷間伝えられるような筆まめな人ではなく、その証拠に直筆の手紙は珍しいのだ。

 それに面会も「誰かれ」と行く訳ではなく「重み」のある行動をして居た。

 強いて云えば、それが三代目山口組若頭補佐の貫禄と値打ちだったのではないだろうか・・・

 それ程、三代目山口組若頭補佐は威厳が有った様に思う。

 今風の軽石では、漬物石にもならないのだ。

 今時の重みとは、年齢と共に修羅場も幾度か経験し、渋味が加わる事を云うのである。

 余談だが、年金生活になったら可愛いおじいちゃんになり「甘味を出しニコニコすべき」だと私は思う。

 「逆もまた真なり」なのだ。