堅気が知りたいヤクザの世界

 第一章  竹中武編

 岡山に在ったオカマの店へ、竹中武に付いて行った時の話しから始めようか・・・

 

 「・・・ずんずんずくずく ずんずくずん 竹中おっさんド助平で」と、そのオカマが親分の前でオカマ節をやり出したのだ。

 私は親分の前でなんで、オカマ節をやるねんと「ムカッ」と来たが、口に出して云えなかった。

 

 肝心な「親方本人」が気持ち良く酒を飲んで居たからだ。

 

 親分・子分と云っても私の場合、竹中武に惚れて子分になった訳ではない。

 私が惚れた親分・竹中正久は、私が懲役に行って居る間に「山口組四代目」になったので、自動的に竹中武の子分になって居ただけである。

 

 いま考えると「日本一にまで成った親分の下」に居て、その親分が当代になったからと云って、なぜ親分より「器量が下」の者の盃を飲んだのか、今思えばヤクザの宿命に対して疑問を持ったのも事実だ。

 

 その時「疑問に感じたままを行動に移し浪人でもして居れば」こんな当たり前の事を今頃になって考えなくても良かったのである。

 矢張り私はいま、ヤクザをして居た事に後悔して居るのかも知れない。

 

 これが天下の竹中武ほどの親分を持った私の、率直な感想である。

 

 ・・・私は、竹中組が山口組を出た時、今度は自分で親分を選ぼうと思い、中野会に行った。

 そして中野太郎の盃を受けた。

 

 この時点で私は「ヤクザしか出来ない」と思ったからだ。

 

 しかし今は違う。 

 ヤクザをして居た事に後悔して居るのだ。

 「後悔先に立たず」と云うが、全くその通りなのである。

 

 今「現役」のヤクザ者でも、私と同じ考え方の者が数多く居る筈だ。

 

 田岡一雄と云う親分は、そう云う面では先見の明を持って居た親分だった。

 

 山口組を、仕事を持った者の親睦団体にして行くのが私の理想だと「自伝」でハッキリ書いて居るからである。

 

 話しは変わるが、私は金の無い者が「人の上に立ってどうする」と思うのである。

 金が無ければ人を助ける事も出来ないからだ。

 そんな金の無い男がなぜ、侠客になれるのか?

 

 若い者から会費と云う名目で金を集めて、その金を自分の生活費や遊興費に当てて居る山口組直系組長がなぜ、良い世の中を作り出して行けるのか!?

 

 山口組も、そんな親方ばかりになったら金を持って居る若い者が大事になってくる。

 結局 ヤクザとしての器量より、金を持った者の方がヤクザとしては上位にランクされるのである。

 

 どんな世界でも自分の所へ金を運んでくれる人間が可愛いのは、或る意味当然なのかも知れない。

 

 

 第二章  ヤクザ無情

 ヤクザは抗争事件で名前を売るか、マスコミに出て名前を売るか」ふたつにひとつだと私は思った。

 

 今考えると、そう云う面では私は人より少しは時代の先端を走っていたのである。 

 現在は抗争で名前を売っても30年の懲役だ。 

 ・・・下手をすれば無期である。

 えらい時代になったものだ。

 

 ヤクザは仮釈放が無いから無期なら一生刑務所の中だ。

 その間に面会に来る者が死ねば、あとは金も無く「青空」になってしまう。

 

 そうなれば、刑務所暮らしも地獄の一丁目だ。

 私はそう考えると、ヤクザと云う生き者が哀れになるのである。

 

 ・・・おまけに下手をすれば、使用者責任に問われ、金まで払わなければならないのだ。

 ヤクザにとっては冬の時代が到来したということだ。

 

 これからはアメリカの暗黒時代が終焉する時、カポネが辿った道と同じ道を、ヤクザ社会も歩むのである。

  

 日本の国から暴力団が無くなり、私の様な考えの者が増えれば侠客が出現し「国」は必ず良い方向に行くのである。

 

 我が祖国ニッポンの将来の為に、私は暴力団員と犯罪者の自立更生支援を掲げて活動している。

 

 

 第三章  盟友の志

 私が竹中組を出た時に、四代目竹中正久親分の時からの直参だった「西村学」もわたしに付いて竹中組を出た。

 

 この西村は私が「竹中組」を出ると云うと、竹中武より私を選んで私に付いて来てくれたのだ。

 

 私が極道社会で一人前になったのは、この西村学のお陰だと云っても過言ではない。

 

 西村学は、中野会が山口組を絶縁になった時、義竜会本部(塩町)で寝泊りをしてくれて居たのだが、その最中に胃がんで死んだ。

 

 私は山口組の報復隊に「気魄」を集中させ 、沖縄米軍の防弾服を改良した防弾チョッキと、その中に薄手の、これもアメリカ製の防弾ベストを二重かさねで着て西村学の入院する「川崎病院」に行った。

 

 当時、義竜会の総帥である私が気弱になったら組員の士気にも拘わるので、私は生来のトッパ気を出して行動して居た。

 そして西村学に逢った。 

 

 病状は、その時点で手遅れだったらしく、医者があと数日の命だと云っていた・・・

 そこで相談役だった中野重次が医者に、同じ死ぬなら苦しい思いをさせず「楽」に死なせてやってくれと云って、モルヒネ治療を頼んだのだ。

 

 もちろん私の指示である。

 モルヒネ治療をしてから、次に見舞い行くと前回の苦しさが嘘の様に軽快な話をして来る。

 そして私に「親分(私の事) 治ったら温泉に連れて行ってな」と云うので私は快く承諾した。

 

 それが西村学と私の、この世の別れだった。

 

 西村学が死んでから、暴力団対策課の刑事から私に電話があり、山口組のヒットマンが「会長(私のこと)」を狙っているから西村学の「葬式」には出ないでくれと云って来た。

 

 私は余分な警備をさせるのも気が引けたので「官」の云う事を素直に聞いた。

 

 だから通夜でお別れをして、溢れる涙を拭きもせず西村学の手を握り慟哭し、泣けるだけ泣いた。

  

 この西村学は、私達が愛して止まなかった竹中正久親分の分骨を入れている墓に一緒に入れて居る。

 

 坂本義一の骨も入っているし、同じ義竜会の「仲間たち」も入って居るのだ。

 

 あの世では、さぞかし賑やかな事だろう・・・

 

 これが西村学にしてやれる私のたったひとつの恩返しなのである。

 

 

 第四章  義竜会の系譜 

 掲載している写真だが、Vサインを出した西村学の横に写っているのが三村和幸で、この男は12年間竹中正久の許で、部屋住みをした男である。

 

 もちろん竹中正久の盃を受けて居たのは云う迄もない。

 

 山広邸襲撃事件の安藤美樹は作州連合(前田和美組長)の若頭だったが、私が刑務所を出た当時、三村和幸の盃を受けて舎弟になって、三村をリーダーに報復隊を編成していた。

 そして暫くしてこの襲撃事件を起こし、そのあと竹中武の盃を受けて竹中組直参になったのである。

 

 三村和幸は竹中組を出て私の舎弟になり義竜会の副会長をしていたのだが、中野会本部から少し経って直参にとの話しがあった。

 

 直参に上がれば先ず、会費の問題が出てくる。

 それにシノギも関係して来るので、本人は中野会の直参になるのは嫌がったが、中野太郎が気に入って居たので無理やり直参に上げさせられた。

 

 この三村もしっかりした男だったので、義竜会にとっても惜しい人材だった。

 

 右端に写っているのが姫路事件で懲役20年を務めた大西正一の実弟で、大西貞央だ。

 

 大西貞央も竹中組の直参だったが、私と仲が良かったので竹中組を出て私の舎弟になったのだが、三村和幸と共に中野会直参にとの声が挙がり直参に上げた。

 

 あと竹中正組の直参が二人居たが二人共私の舎弟になり、盃をして暫くして若頭と本部長にした。

 

 一人は竹中組本部の部屋住みを8年間した吹田博司で、あと一人は坂本会の若頭から竹中正組の直参になった西川和博である。

 

 こう考えると私所には、良い人材が揃っていたのだ。

 

 下の写真は、義竜会事始め式の一葉である。

写真左側でVサインを出して居るのが西村学、次が三村和幸、そして「三村の若中」高崎力、右端が大西貞央
写真左側でVサインを出して居るのが西村学、次が三村和幸、そして「三村の若中」高崎力、右端が大西貞央

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コメント: 2
  • #1

    酔人 (火曜日, 30 4月 2013 12:05)

    はじめまして。
    昭和54年の週刊朝日の陣笠のお写真を今でも良く覚えている者です。
    「会費」の額は色々でしょうが、中野会ですと、
    直参でおいくらくらいだったのでしょうか?
    差し支えなければ、でお願いします。

  • #2

    竹垣 悟 (火曜日, 30 4月 2013 22:44)

    申し訳ない。
    私は数字に弱く、覚えてないのだ。