007ジェームス・ボンドへの憧れを込めて・・・
人には天運と地運・そして人との縁がある。
その三つが上手く折り重なってこそ、その人の才能が花となり運が開けるのだと云う。
私は一人の男として今、原稿用紙に向かいながら自分の学んで来た道を振り返っている。
そして染々ペンを持つ事の喜びを感じている。
自分が見たままを正確に記憶し、感じた事を素直に描写するのは物書きとしてごく当然の事なのだ。
この当たり前の作業が、頭をひと捻りしなければ名文は生まれないと云うのが私の率直な感想である。
物を書くと云うのは、それだけ難しい事だと改めて想うのだ。
そして自分の心に偽りの無い、云うならばフィクションと云うジャンルで私は物を書かないようにしようと至って本気に構えているのである。
007・ジェームス・ボンドに憧れたのは、ボンドは女に強く、自分にも強いからである。
強い男には、トゲのある紅いバラが似合うのだ。
バラの花は見て居るだけなら綺麗が、触ると痛い目に遭うのも理由のひとつである。
ジェームス・ボンドは「MI6」と云う組織に属し、組織の命令には絶対服従を誓い、行動している。
私も「MI6」並の組織を作ってみたいと思うのだが、組織を作るとは、難しいものだと思うのである。
また組織を作り、育てて行くと云う事は、その組織に息を吹きかけ、魂を宿さなければならない。
私は五仁會の「頭領」として「陣頭」に立ち組織を引っ張り、高尚な精神を持つ機関にして行きたいと思って居る。
その為には、私自身がしっかりしなければならない。
外に接して行くには先ず、自分の家庭がしっかりして居なければならないのである。
その家庭を支えて行くのが「内助の功」で、我々日本の社会には必要不可欠なものと云えよう。
私の系譜は但馬の出石藩・藩祖仙石権兵衛秀久から数えると15代目になるのだ。
仙石騒動で有名な仙石左京は10代目で、この左京の倅が田中河内介(儒家藤原綏猷)である。
私は先祖に「歴史に名を残す」立派な人を持ったので、私も後世に名を残せる男で生きたいと努力してここまで来た。
私が歴史の表舞台に名を残すには「良き家庭」と、その家庭を守る嫁が必要なのである。
その嫁には子を持つ親として、人に何等恥じる事のない人生を、これから私と共に送って行く覚悟を再度促すのである。
我々の人生の終章(エピローグ)に向かって生きて行ってほしいのである。
そこで私が、息子達に云っておきたい事があるのだ。
自分の言葉を追いかけて行くのは至難の技で「自分以外の者に」秘密は云わない事である。
そして私が、女を選ぶ際の小さなこだわりを、我が息子達に述べてみたいのである。
私には、女が私の為にどれだけ苦労が出来るかが重要であり、その女がどれだけ私に尽くせるかである。
私とて、家庭を守る女が「出来ない苦労」をさせる程、頭の回らぬ男でもなく、その女が「出来る苦労」だけしかさせないのである。
それ位の判断は出来るのが「男の器量」と云うものだ。
もちろん無理は、云って居る本人が一番 知っている事だ。
私に尽くせる女なら、私が国家(昔は組織)に尽くしたいと生命を賭ける程の思いで走って行っても、黙って私の後を付いて来るからである。
その変わり、逆の場面が来たら私は女の為に、命を賭けることが出来るのである。
そうする事によって、お互いの中で信頼関係が生まれ深い絆が結ばれるのだ。
そして、その女を信じることが出来、例えば私が長い懲役に行っても、中で猜疑心を持たずに済むのである。
こんな事を云うと、吉永小百合への理想論は、一体どうなったのかと云われそうだが、それは飽く迄も理想であって現実は、これから先の話しなのです。
だから話しを進めよう・・・そして次は頭の良さ・器の大きさ・それから知性と教養・そしてこれがさっきの話で、吉永小百合のような全て備えた才媛で「容姿端麗」な女の出番なのです。
すなわちパーフェクトな絵になる女として吉永小百合が、私の理想なのです・・・
「人にはそれぞれ、優先順位があるのです。」
男と女には、性格の不一致と云う便利な言葉がある。
この言葉ほど、男女の仲を的確に表現出来る言葉も他にないであろう。
女が、男より激しい情念で、自分好みの男にアタックするのも、こんな時代の表れであろう。
心理学で云えば、良い男の子供を宿したいと云う、女の本能がそうさせるのである。
優秀な子供程、親孝行な子になるからだ。
私が、絶対相手にしなかった女は、酒に飲まれるか、酒ぐせの悪い女である。
そして次に、運転免許を持って無い女も、パスすることにして来た。
今どき、車の免許が無い女は、頭が悪いか、横着か、金によほどの余裕が無い女だと、相場が決まっている。
スピード違反もノーサンキューである。
これは、違反によって免許が無くなる愚かを防ぐ、最良の方法だからである。
そして何よりも、女が国の法律を守れないのは良くない習慣である。
子供が真似をするからである。
女とは一言で云えば、玉の輿に乗れるだけの器量を自分で養うだけの「素養」がなければ、男によっては浮き沈みが激しい人生となるからである。
女は総じて賭け事が好きだが「酔って」いたのでは「勝つ博打」も、結局は負けるのである。
博打は胴元が勝つようになって居るので、私は胴元になっても「博打」はしない。
女とは男が磨くには、金のかかる生き物で、同じなら磨いて光る女(たま)に金を掛けるのが男の甲斐性であり、ステータスであろう・・・
私は「ピン」の男と付き合って来たし「キリ」のクラスの下っ端も見て来た。
そこで、ひとつ分かった事は「類は友を呼ぶ」と云うことである。
「交わる」と云う愚かな「選択の時」を、自分の「心で止める判断力」が要るのである。
同じなら「ピン」の男や女と知り合い、友情関係を築いて行く方が、自分が愛しい家族の「遠い先の幸せ」に繋がるのだ。
今の時代だからこそ、そんな人との「縁し」の種を蒔いておく必要があるのである。
そこで、人脈を持った人との出会いが「人生の最重要課題」になるのだ。
私のこだわりの原点は、007・ジェームス・ボンドの国イギリスである。
イギリスは、ジェントルマン(紳士)の国として、また騎士道の勇猛果敢な精神を受け継ぐ国としても知られる。
ジェントルマンの国の男爵は、戦場に在っては指揮官として特攻隊の隊長のように先ず戦場を、先頭に立って駆けるのだ。
そうしなければ国民が「信」を置かない民族だと云うのだ。
「先頭」に立ってこその「頭領」である。
物の本によれば、良い人材は先の大東亜戦争で多くを失い、ほんの一部を除いて今では数えるほどしか残ってないと云う。
これは大東亜戦争を経験した国は、どこの国も同じで我が祖国日本でも、この点はよく似ている。
大東亜戦争で多くの優秀な「大和魂」が失われたのだ!
007の話に戻るが私は偶然にも、この「007は二度死ぬ」のロケ隊が日本に1966年頃に来て、そのロケを姫路城まで見に行ったのだ。
ショーン・コネリーや丹波哲郎を目にした瞬間、私はカメラを構えフェンダー越しに、007とタイガー田中役で出演して居た丹波哲郎を見たのである。

その写真が、セピア色したアルバムに残って居たので、ここで紹介しよう・・・
巡り合わせと、人の縁は不思議なものだ。
丹波哲郎は「天皇の世紀」と云うTV映画で、「田中河内介」を演じているのだ。
因みに007は大ヒットし、1967年の公開と同時に見に行った。
そして、ひょっとして映画に私が写ってないか、スクリーンの中の私を探したことが、今となっては遠い想い出である。
イギリスへの私の憧れが、1988年にロールス・ロイスに乗る事によって叶えられ、その夢を実現させたのである。
これは今でも私の自慢であり、38才の若造の道を極めた道楽だったのである。
現在は、グーンとランクが落ちて1970年式のセダンの黒のベンツと、AMGの白のベンツに乗っている。
日本の国に「大和魂」があるように、アメリカには「ヤンキー魂」があり、お隣の朝鮮半島には「コリアン魂」がある。
この「コリアン魂」を賭けて、北朝鮮と韓国が、戦ったのは1950年のことだったのである。
これは「朝鮮動乱」として公式に記録に残る民族の悲劇なのだ。
日本・アメリカ・韓国と、それぞれの国が、その国の伝統を培って民主主義としての自由主義国家を形成して来たのである。
中国には、漢民族と56の少数民族が居て国家が構成されている。
「多民族国家」なのである。
中国の歴史の中で「秦」の始皇帝が紀元前221年に国家として統一したが、君主制度であった為に、中国が国家として「国民の心がひとつ」になったことが無いので、それが今後の中国の課題であろうか・・・
「主義主張」で一党独裁政治を行っているので、国として国土も広く人が多い分、「舵取り」は想像を絶する程むつかしいと思うのである。
中国と云う国への現時点での私の評価は、3年余り前に、広東省の深圳(しんせん)に在る仕事関係先のプラスチック工場へ研修に行き、2週間余り滞在(その時福建省と上海にも行ったが)深圳に居る間、市中を回って感じた事は「ひとつの省で起きた事件」が「次の省へ行けば誰も何も知らない」「とてつもなく大きな国」だったと云う事だ!
「上意下達」は、むつかしい国だと私は見たのである。
今の中国は共産党が一党独裁で、日本で云えば江戸時代に徳川幕府と家臣団が支配して居た様相と同じであると思う。
一党独裁主義が年月を経て一族の専有となり、汚職がはびこり、国の汚れは増すのである。
私は「国防論」と云うのは先ず「備え」から始まるものだと戦国時代の歴史の裏側に、学び取ることが出来るのである。
日本の国家社会が国として「備え」なければならないのは「憲法の整備」である。
そして第九条を使う、使わないは別にして「治に居て乱を忘れず」の私の座右銘を肝に銘じてもらいたいのである。
「いざ鎌倉」と云う時に備えておけば、我が国の有事に斬然と立ち向かえるのである。
それ行けと云われて「道具がおまへんねん」 とは、男として云えない言葉である。
サムライが武士の魂である刀を捨てた時、商人根性でソロバンが出るのである。
行く時は「男として行く」が、日本と云う国の古来より受け継がれて来た「武士道精神の心得え」であり、日本人の国民性に適った竹垣悟の主張する政策なのである。
戦うことを忘れた日本人は国家の一大事を甘受して居るなら、私は先祖の「御魂」に対し申し訳無く思い「悠久の大義」を果たせない喪失感を覚えるのである。
教育と国民性を語るのは、お国事情があり非常に大変だと思うが、私は北朝鮮の若き指導者・金(キム)正恩と会い、北朝鮮と日本が前に進み国交を回復し、少なくても今より良好な「日朝関係」を構築してみたいのである。
私が男として、日本人として許せないのが「北朝鮮拉致問題」に進展が無いことである。
前、民主党政権は何をして来たのか・・・
これは、我々大和民族としての先祖から受け継いだ「惻隠の情」が許さないのだ。
この問題に、私如き、枯れ男の「魂」が役立つなら、私のこんな命はいつでも北朝鮮にくれてやる!
ニッポンのサムライが同胞を想う大和心は大東亜戦争でも実践済みだ。
死に場所を探している私にとっては、花を咲かせて散れる「一世一代」のチャンスだと思っている。
金(キム)正恩と話しが出来る側近が居たら、私がシークレット・トップのジャパンマンとして逢ってみたいと云って居ると話して欲しいと思う。
金(キム)正恩が、在日コリアンの子息なら、私のような少なくなったサムライニッポンと逢って話してみたいと思うかもしれない。
信義を命にかえて守る男と会談してこそ、政治は前に進むのである。
政治家だけが「政治を動かす訳ではなく」私のような「民間人」でも世界に通用する人格と識見を持ち「度胸」があれば命を賭けて祖国ニッポンの為に「汗」も「血」も「涙」も流す覚悟はあるのだ。
国家の威信を賭けての諸外国との渉外活動を、血のにじむ努力で成し遂げようとする意気込みを私は「007・ジェームス・ボンド」ばりに思うのである。
私が志し半ばに野に倒れたら必ずや、私の弟子達の中から国難に対処出来る人材が出て来る筈である。
小さな信念は、大きな心に負けることはなく、大きな心は、命を賭ける程の大和心(度胸)を更に大きくさせ、その大きさの分、夢は広がるのである。
「政治をする」と云うことは、つまり命を賭けて「国民の命と財産」を守ることなのだ。
この道理を弁えて政治家は、どんな逆境に立っても「政治家同士」心をひとつにして、国難に対処してもらいたいのである。
天皇陛下の玉条「教育勅語」を思い出してほしいのだ。
因みに私は「七人」の代議士(衆議院議員)に、これからのニッポンの将来を託してみたいと云う想いがある。
先ず若手から「小泉進次郎」
この人は若いが政治勘が良く、この人の言葉には発信力があり、人としての華がある。
これは政治家としての天賦の才なのだ。
次に、アメリカも認める筋金入りの硬骨漢「平沼赳夫」
男として信用出来る天下国家の逸材なのである。
三人目は伊藤博文の子孫で外務大臣を務めた「松本剛明」
この人は銀行勤めをして居た時にサラリーマンとして社会をよく見て来た。
そして、東京大学を出た頭脳に、官僚と対等に渡り合える度量が見える。
そして何よりも「器」の大きな人物なのだ。
民主党は世襲廃止とかで、この人の居場所は将来の民主党にあるのかと、私は地元の有志として心配なのだ。
四人目は「渡海紀三郎」
この人も文部大臣まで務めた程の代議士なのに前回は民主の風を受けて、その突風の煽りを受け沈んだ。
その屈辱がバネとなり人間的にも、一回り大きく成長した。
それを実感したのが昨年秋の曽根天満宮の「なおらい祭」だ。
苦労が人を育てると云うのは政治家にとっては、ひとつの戒めの言葉である。
苦労なくして、喜びはないからである。
又、国民の苦労を知らず政治は立ち行かないのである。
五人目に私は老骨に鞭を打って貰い、まだまだ政界の御意見番として硬派を貫いてもらいたい人に「石原慎太郎」を挙げたい。
石原慎太郎の祖母と、私の母の父方祖母が縁につながるのである。
私の母の父方祖母は、宍粟市千種町岩野辺村の出身で旧姓を「石原りつ」と云い、加西市の名刹・古法華と云う古い寺で、尼住職として生涯を終えた人なのです。
・・・もう一人、竹垣悟の中に応援したい政治家は居ませんか?と森の石松を語る広沢寅造ばりに聞かれたら、私は躊躇わず「谷垣禎一」の名前を挙げたい。
「加藤紘一の乱」と云われる、自民党クーデター未遂事件の時、逸る「加藤」を、泣いて「止めた」と聞いた時「タニガキ」と「タケガキ」と「一字違い」で「親分思いの良い男やなぁ」と感心した事がある。
この政治家も、一度は国の「舵」を執らせてみたい男である。
それが「野」に下って居た自民党の命運を繋いで来た、この「谷垣」に対する仁義である。
頑張れ、タ・二・ガ・キ !
負けるな、タ・ケ・ア・キ !
私はこうして今日も、松本剛明に声援を送るのである。
最後に、あとひとり私が友人になりたい政治家が居る「鳩山邦夫」である。
邦夫は人間が正直すぎるが「鳩山一郎」の血を引く政界では「サラブレッド」だ。
何より名前が「鳩」と付くのが良い。
それに、私との相性もピッタリ合う、どちらも共通点がある。
その共通点を、膝を交えて話し合える日が来る事を祈念して居る。
私は「アルカイダ」ではなく「シークレット・トップ」の一員である。
そして何より「特定非営利活動法人・五仁會」の頭領(ボス)である。
私と鳩山が、話せば何かが生まれるような気がする。
突き詰めて行けば、人と人のつながりは、目に見えぬ「赤い糸」で繋がっているのです。
私は仏教の教えの中で、赤い糸と云うのは「人に流れる血」のことで、この血縁を繋ぐことを「赤い糸で結ばれた」と云うことだと教えられたのです。
私が揚げた代議士「七人の侍」に、私は先人が愛して止まなかった「日本の風土」と「護国」の「英霊」に対して、何等恥じる事のない「政治信条」を持ち「日本の国家」に大いなる「夢」を与える政治家として日々活躍してもらいたいと思うのです。
田中河内介も、きっと私の「政治信条」は解かってくれると思います。 竹垣 悟
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