サムライ魂の果てに貫徹出来たこと・・・

 私の極道人生で、たった一人の兄貴分だった古川真澄(通称雅章)の事を書いておかなければなるまい。

 

 あれは2年位前だったか・・・

 

 嫁に「あんたほんまに幡随院長兵衛とか云う侠客の二代目になるんかいな」と聞かれた。

 「なんでや」と聞くと「店のお客さんが、そない云うてたで」と云う・・・

 

 「お前アホか。なるわけないやろ!」と私は軽く応酬した。

 

 思えば古川真澄が死んだ時、一番に本宅に掛け付け合掌した。

 そして古川の枕元に盃を置き、水盃にしたのだ。

 

 「それ、お前も知ってるやろ」と応えた。

 

 そのむかしは、もっと気取った夢を持っていたが、それも時代の流れと共に私なりの現実路線に切り替えたのだ。

 

 古川も五代目から六代目に代が替わり、六代目山口組では居場所がなくなり実子の恵一に二代目を譲り引退した。

 

 その古川の末路も哀れなものだった。

 山口組に未練を残したままだったからだ。 

 

 私は水神翔という若い者を古川の運転手として付けて居たので、古川の行動は手に取るように把握していた。

 

 古川が三日三晩寝ないで譫言(うわごと)ばかり繰り返していた時も、病院に駆け付けた。

 

 そして私が「俺所はもう看板を下ろしたんでっせ」と云うと「そんなもん関係ない。俺は死ぬ迄極道や」と云ったのだ。

 

 古川も現役に未練があったので「竹垣はアホな奴や」と云いながら、私が山口組を付いて出たことを喜んでくれて居た。

  

 そんな事を考えながら古川の位牌に手を合わせて居ると、ふと藤田(許)永中の事が想い出された。

 

 藤田永中から私宛に来た手紙が、仏壇の引き出しの中に入って居るからだ。

 

 手紙の遣り取りをして分かった事だが、藤田永中ほど打てば響く太鼓と云う言葉が似合う人は居ない。

 

 私は、この藤田永中が刑務所の苦労の中で、侠客と云われる人物になっている事と確信しているのだ。

 

 この藤田永中と福田晴瞭(住吉会々長)が兄弟分で「福田はわしの舎弟や!」と古川真澄がよく自慢していた。

 

 藤田永中が舎弟だったのは分かるが、天下の福田晴瞭まで舎弟やと云い切る古川はやっぱり、山口組幹部一同が一目置いただけの事はある人物だった。

 

 若い頃、カニは横歩きするから食べなかったと云い、エビはバックするから嫌いだと云って居たと云うのは、真っすぐ人間の古川としては当時有名な逸話なのだ。

 

 古川は、何かあったら直ぐ手を上げる典型的な力で押す極道だった。

 

 私が幹部会(西林健治)の意見を押し切り、実子の恵一を若頭にと古川に云いに行った時「恵一はまだ早い」と反対したが、それは建前で親として心の底では喜んでくれていたのだ。

 

 恵一もこんな私には礼儀を尽くしてくれた。

 

 何年か前に阪神尼崎駅を降りて商店街を歩いて居ると偶然、恵一に会ったことがある。

 

 恵一は、私の顔を見るなり姿勢を正し「兄貴、こんな所で何してますねん。ええかげんに事務所に顔を出さなあきまへんで」と云った。

 

 そして側に居た若者を「これ俺の息子ですねん」と云い、二人同じように私に挨拶した。

 

 その時「この子は山口組の直参になって、ほんまに器の大きな人間になった」と思ったものだ。

 

 また私にとっては、兄貴分である古川真澄の息子なので余計可愛い男であった。

 

 私の破門状が出る時、この恵一が私に電話して来て「兄貴、山口組本家が、兄貴の破門状を出せと云うてます。でも俺は出んように頑張ってみます」と筋を通して私に連絡をくれたこともある。

 

 因みに恵一に「ええかげん事務所に顔を出さなあきまへんで」と云われたので、私もシャレのつもりで恵一と別れてその足で古川組本部へ顔を出した。

 

 そしたら福原恵(若頭代行)と新井邦寿(若頭補佐)が当番で事務所に居た。

 

 私が事務所に入った途端、新井邦寿が驚いて立ち上がり「叔父貴、なんで来ましたんや」と聞くので「そこで二代目と逢って、ええかげんに事務所に顔出さなあきまへんで、と云われたから来た」と答えた。

 

 私も自分で云うのもなんだが、度胸があるだけが取り柄の男だ。

 

 古川が懲役10年を務め徳島刑務所から帰って来て、山口組五代目・渡辺芳則と逢った時「わしも古川みたいな極道になろうと思って今日まで来た」と云ったそうだ。

 

 古川は、竹中正久や中野太郎と同じで、私の様なトッパ者が好きな極道だった。

 

 古川真澄の盃を貰うと決まった時、片岡昭生(当時山健組本部長)と木村阪喜(現六代目山口組幹部)が一緒に付いて行ってくれた。

 

 その時片岡が古川に「義竜は中野会で一番の人材やから、うちの親父(山健組々長・桑田兼吉)から叔父貴の所へ送ってやれと云われて連れて来た」と紹介してくれた。

 

 お陰で古川は、終生私に外面(そとづら)で接してくれた。

 

 私の持論は、泣いても笑っても人生は一回こっきりで、悔いのない人生を送りたいと云うものだ。

 

 「相手が空手百段でも、酒さえ飲んでなかったら俺は負けへんど、ブスッと行ったらしまいや」と云うのが私の口癖だ。

 

 これが竹中正久の死と、古川真澄の死を比べて悟った私の人生哲学なのだ。