無責任時代の到来を嘆く島田紳介と五仁會頭領

週刊誌に泣く芸能人と政治家たち・・・

 「週刊誌なんか売れれば良いのであるから、いいかげんな事ばかり書いている場合が多いのです・・・」と竹中正久は私宛の書信で看破しているが・・・

 

 ニッポンと云う国が、これからは将来の国家像をしっかり描き、政治家と国民が同じ目線で語り合える新しい国づくりをして行くべきだと私は想う。

 

 そう云う面では週刊誌の記事を書く者は、もっと自覚と誇りを持ってペンを執るべきであろう。

 そしてマスコミの正義として、自分の書いた記事には断固として責任を持つと云う覚悟が必要なのである。

 

 人を殴るのが暴力なら、ペン先も言論と云う名の暴力なのだ。  

 そう云う面では、自分の書いた記事に名前を書いて掲載すると云うのがジャーナリストとしてのモラルであり、又最低限厳守しなければならないマナーであると私は思う。

 

 自分の書いた記事に、名前も書けない三流ジャーナリストには、プライドが感じられないのである。

 そう云う人間に限って、書かれた人のプライドも考えないのである。

 

 この週刊誌の「売れれば良い」と云う体質は、新聞記者達にとっては許しがたい行為であり、商魂第一主義を黙認してニッポンの国に正直者は育つのかと、私は多少疑問に感じる。

 

 日本人は国民としての「知る権利」を多用し、マスコミは「報道の自由」を駆使し世論を扇動し、ニッポンと云う国をより軽いフライ級の国へと落としめて居るのが現状だ。

 

 現行の法律では「知る権利」と「報道の自由」が両刃の剣となっているのが顕著で、これが国家社会の不幸の源泉であると私は考えるのである。

 

 国家百年の大計と、マスコミ(今日は徳間書店)と私との縁と云うものを綴ってみたいと思います。

 

 アサヒ芸能1月30日特大号をフランスのシャルル・ドゴール空港で取り出して読み始めると「極道には家族は不要と云う信念を持って居た竹中四代目は生涯を独身で過ごした」と書いてあったが「なんで四代目が独身やねん」中山きよみと云う暦(れっき)とした姐さんが居り、竹中組本部事務所で夫婦として一緒に生活していたのにです。

 

 只単に籍を入れてなかっただけの話しで、親分が襲撃され志半ばに倒れた時、姐さんは脱税容疑で指名手配され逃亡して居たのと、内縁やっただけに、遺産問題が竹中正・武兄弟と微妙に絡み、結局は渡辺五代目襲名の時・姐さんは渡辺を五代目と認めたので、山口組で本葬した(四代目の)香典を貰い、それで竹中家と疎遠になったと云うのが真相なのです。

 

 竹中家側から云わせたら「兄貴(四代目)も女のマンションで殺されたから、ドラマになるように四代目は、極道に家族は不要や」と云って居たと・・・そこで伝説がひとつ出来たのです。

 

 当時竹中武・正兄弟は「飛ぶ鳥も落とす勢い」だったので勝者の論理で云えば尚更こうなるのです。

 

 これは裏話ですが、溝口敦(ノンフィクション作家)が「荒らぶる獅子」をアサ芸で連載して居た時「江坂のマンションの女」の場面になると決まって姐さんから私に電話があり、それも呂律の回らない位酔って、溝口(敦)に「こう云うとけ!ああ云うとけ!」とほんまにノイローゼになるぐらい電話が掛かって来たものです。

 

 それから溝口敦もそんな事を考慮して、あまり姐さんのことは書かなくなったと思うのです。

 

 私が竹中組では、アサ芸の担当と云うのか、そんな事をして居たので姐さんが酒を飲んだ時の「酔っ払い節」が私に炸裂して居たのです。

 

 当時の編集長・松園光雄(私と松園の仲は写真を見て頂ければ分かると思います)や、デスクの長綱和幸(後に徳間書店専務)とは連載中よく飲みに行ったものです。

 

 加茂田重政が徳間書店社長・徳間康快から「詫び状」を取って居たのを私が加茂田に話し、東京のホテルオークラのロビーで(溝口敦も同席で)長綱和幸に返還させた事もあります。

 

 それで徳間書店と私とは縁が深かったのですが、長綱和幸が数年前若くして死んだ今、縁が無くなりました。

 長綱の奥さんの啓子さん、そう云えば元気にしとってやろか・・・

 

 話しは変わって、中山きよみの通夜に「山口組も直参が個人的に参列したのだろう」と想像で書いて有ったが、実際は祭壇に菊の花が並び、その中に「司」とただ一字大きく書かれた名札が両サイドの一番上に一対有ったのです。

 

 そして、祭壇の位置は下がり「司忍」と書かれた名札がこれも一対ひときわオーラを放ち並べられ、その下に高山清司と墨字に威厳を乗せて書いた名札が両サイドにドーンと直立不動で置いてあったのです。

 

 六代目山口組の面々も皆、中山きよみが四代目の姐さんやと知って居るので中山家に迷惑を掛けんようにと司忍(六代目組長)の名代を橋本弘文(統括委員長)が務め、高山清司(若頭)の名代を井上邦雄(若頭補佐)が司会者に呼ばれた通り、前に出て焼香して居たのです。

 

 司忍の名も、高山清司の名も、代理とアナウンスがあったのを私はこの耳で聞き、この目で焼香も見たのです。

 参列した者は、全員よく知って居る事なのです。

 

 この時丁度仲の良い刑事から電話があり、隠す必要もないので見たままを正直に話しました。

 会場前にもマスコミと兵庫県警が来て居たからです。

 

 通夜(密葬)への参列は、山口組綱領に基づいた先人顕彰の理念で、それが薄れつつある現代社会に警鐘を鳴らしているのが煙たい人も多いのです。

 

 私達五仁會も「義理と人情」の世界を構築して行きたいと願う新型のNPO法人で、山口組も暴力団から脱皮して侠道精神に則って、或る面私達五仁會と同じ思いを実践して居るのではと思います。

 

 警察官の世界の葬儀に、私も堅気になってから参列しましたが、ここも表社会の男の世界なのです。

 

 これはまさしくニッポンの国の、今やるべき国策のひとつであり、時代を無縁社会から共生社会へと回帰させる出発点にしなければなりません。

 暴力団を排除して、世の中に有益な人間を作るとは、難しい政策だと思います。

 

 しかし暴力団から侠客への流れも、カリスマが道しるべを示し、実践を組員に促して居るので私は、いつの日か山口組から暴力団と云う呼称が取れ、住み良い街づくりに協賛するボランティア団体に衣替えする時代が必ず来ると信じます。

 

 侠客とは一言で云えば、人助け(ボランティア活動)の権威ある呼称とならなければならないのです。

 

 江戸時代の士農工商・穢多・非人、と云う身分制度から云えば今の暴力団は非人階級になるのでしょうか・・・

 非人には非人頭が必要なのです。

 その非人頭を我々NPO団体が引き受けようと活動して居るのです。

 あなたは非人頭になれますか・・・?

 以上、頭領としての私の思いでした。

 

 チョット一言・・・・・

 アサ芸も私に4分の1ページでもコラム欄を提供してくれたら、より正確な原稿を読者のニーズに合わせて書きまっせ。

 

 記者も記事を裏も取らない手抜きのマスタベーションみたいな品の無さにしたら、徳間書店・竹本朝之と青戸康一の名が泣き、しまいめに週刊誌の信用を失墜させる事受け合いでっせ。

 

 餅屋は餅屋に任せて、読者が読みたいものを取材力のある記者が書いてこそ、本来あるべき週刊誌の姿になるんと違うやろか・・・

 

 これ、私のセールスと違いまっせ。

 勘違いせんと聞いておくんなはれよ、アサ芸のセールスだっせ。 

 ゴメンやっしゃ。

                    

 つづきにまた一言・・・・・

 それと、今までは週刊誌が責めの記事を書いてた分、逆噴射され今までとは逆に、記事によっては週刊誌側が受身に廻る可能性もありまっせ。

 

 フライデー事件覚えてまっか・・・ 

 偶然にも同じ頃、顔面骨折したのが、われらがタケちゃんマンでした。

 私はバット、タケシはバイクでノーサイド。

 洒落(シャレ)にもならない苦労ばなしです。

 

 十二所神社(播州皿屋敷・お菊神社で有名です)の宮司・菅原信明も五仁會の発会式に駆けつけて、御祓い(みことのり)をしてくれました。

 私の云う事を聞きなさりませ。 きっと、そうなさりませ。   竹垣 悟