世の為・人の為にとは・・・

 五仁會の発会式が終わって少し経ってから、あれは確か6月の半ば過ぎ、ゆかた祭りの前頃だったろうか・・・

 

 雨の降る蒸し暑い夕方近くだった。

 情緒が醸しだす但馬の生野にある播磨屋「主(あるじ)の尊王活動は大きなバスと共に有名だ。

 

 生野へ行ったのは、ここで幕末の頃「生野の変」が起きたのと、田中河内介が但馬の生まれだったからだ。

 

 この生野の乱では、生野から北へ約8キロ程離れた「妙見山」に「長州の奇兵隊」を脱した12人の若者達が立てこもったそうだ。(ひょうご幕末維新列伝・一坂太郎著より)

 この若者達は「生野の乱」が不発に終わると次々と腹を切って果てたと云います。

 

 南八郎こと河上弥市は、全員の介錯を終えて自決したと伝えられているのです。

 

 その無念の胸中を高札に掲げ「議論より 実を行なえ なまけ武士 国の大事を よそに見る馬鹿」と書きなじって、矯激な思いを今に残して居るのです。

 

 この「河上弥市」の「辞世の句」とも云うべき「戯れ曲」は、かって長州の同志「来島又兵衛」が「詠んだ」ものだとされています。

 この私の心に強く残っている「戯れ曲」を噛み締め、今後の五仁會の構想を練りに行ったのですが・・・

 

 抹茶を飲みながら、餅を口にした時「最近お前、世の為・人の為にとか綺麗事ばかり云ってるけど肝心な裏側はどうなってるんや」と医療法人健祐会・中谷健二名誉理事長に聞かれたのです。

 

 私も素直に五仁會の事を相談すれば良かったのですが「人生なんか綺麗なものを見る為に生きているんやで」と意地の悪い質問に応えようとしたのでした。


 しかし恩人やし、この人も変わった人やから「五仁會と云う綺麗な花が、まぶしいんやろな」と思い止めたのだ。


 その頃は、お中元の季節だったのでお中元に添えて、その時の私の想いを託せば良いと考えたからです。

 

 その人は、人物も含めて一流品しか認めないと云う頑固な医者だったのです。

 そこで、和菓子の一流品と云われる賞に輝いた白鷺天舞と云う名菓を送りました。


 その名菓の社長(先輩)は井上賢と云い、丁度上手い具合に産経新聞の「ひょうごにこの人あり」と云う欄に平成24年7月10日より3日間連載されたのでした。

 

 40数年前に花の都に憧れて上京した折(この後、2回目の時、私が東映の大部屋に入った頃も)この先輩の下宿で居候して居りました。

 

 同じ東映の大部屋には石倉三郎が居り、仮面ライダーV3の宮内洋とは一時は毎晩一緒に遊んだものです。(この時私は東映撮影所近くの東大泉町に間借りもしてました)

 

 余談ですが、この先輩が早稲田に行ってたので、いきなり学士力論の壁にぶち当たり尾崎士郎の人生劇場にかぶれるようになったのです。

 そんな訳で「義理と人情の世界」人生劇場が今も早稲田への憧れと共に続いて居るのです。

 

 そう云えば吉永小百合も早稲田やったなぁ・・・

 早稲田のキャンパス近くを歩いて居たら逢えるかもと・・・他の先輩に空気を入れられ、よく歩いたものです。

 結局何回歩いても逢えなかったけど・・・

 

 その替わりタモリと逢ったけど、サングラスを掛けて妙にオーラがあったのが印象に残って居ます。(やっぱりオーラのある奴は違うんやなぁと後年思いました)

 タモリも小百合ファンで、ひょっとしたら私と同じで吉永小百合を見に来てたりして・・・と思ったのですが、先輩に聞いたら「タモリも早稲田や」と云って居りました。

 

 結局恩人に、世の為・人の為にを試されただけなのでした。

 

 追記

 「ボロは着てても心は錦、どんな花より綺麗だぜ」と水前寺清子が唄ってた頃聞いた演歌を思い出しながら、決意を新たに五仁會と云う、今は小さな船を大海原へと漕ぎ出す私でした。

 心ある仲間たちと・・・

 

高嶺の花について・・・・・

 私は子供の頃から吉永小百合が好きで「なんで小百合がすきやねん?」と聞かれた事があります。

 

 「俺が大人になって結婚して子供が出来たら、吉永小百合みたいな美人の子を作りたいからや」と答えました。

 

 私は子供の頃は、自分で八頭身ではないと思って居たからブスはパスだったのです。

 私は頭が大きく、それにその頃は背もまだ伸びる前やったし、イメージ的に火星ちゃんのようでした(今は180cmあります)

 

 早稲田在住時代(学校は行ってなくて、あくまでも在住していた頃です)からの念願である吉永小百合を、あの世に逝くまでに一遍見とかなアカンと思い、大劇と云う映画館の支配人・田村和夫先輩に頼んで「北のカナリア」の「トークショー」のチケットを取ってもらったのです。

 

 そして雨の降る中、それも電車に乗って大阪城駅近くのホテルニューオータニまで ひとりで行ったのでした。

 

 あれは昨年の10月18日のことです。

 テーブルナンバー6の1に座り、五仁會のバッヂを付けて行ったが、吉永小百合は見てなかったやろな・・・花道をサッサと歩き、舞台に上がったからだ。

 

 代わりに隣に座った芦屋の(と云って居た)おばはんが ジロジロと私を見て、そのおばはん曰く「浅丘ルリ子の舞台も今日やけど、私はこっちを見に来たのよ」と云って上品な笑い声を発して居た。

 

 私の部屋と応接間に、吉永小百合のプロマイドを飾っているけど、身近に見て吉永小百合の若さと気高いオーラ、それに水泳で鍛えたと云うボディーの見事さは 何とも云えない魅力だった。

1970年前後・早稲田大学在学中の井上賢(右)と幡司勝治(左)早稲田大学雄弁会・卒業後笠岡市の市議会議長などを務め、岡山県日中友好協会の理事長を務めた先輩。
1970年前後・早稲田大学在学中の井上賢(右)と幡司勝治(左)早稲田大学雄弁会・卒業後笠岡市の市議会議長などを務め、岡山県日中友好協会の理事長を務めた先輩。