男の所作

写真は、男とは、かくあるべきだとの生き方をして死んだ竹中正久親分。私が生涯を賭けて手本にしたい人である。
写真は、男とは、かくあるべきだとの生き方をして死んだ竹中正久親分。私が生涯を賭けて手本にしたい人である。

 ヤクザ社会のことで、久し振りに痛快な記事を目にした。

 

 5月27日付の産経新聞に、山口組・高山清司若頭が上告を取り下げ服役すると出ていた。

 これは六代目山口組・篠田建市組長が服役して以来久しく絶えていた、男の潔さの表れだと思った。

 

 山口組のトップとナンバーツーが、ヤクザとしての心構えを見事なまでに体現した事は、今後のヤクザ社会の道しるべになるだろう・・・

 

 いやはや、私は男の所作に感じ入った。

 

 高山清司と云う人物には賛否両論があるが、私は今あらためて男とは、篠田建市組長や高山清司若頭のことを云うのだと思う・・・

 

 暴力団更生センター 五仁會の「長(ちょう)」である私が、こんな事を書くべきではないが、敢えて見習うべき男の所作を書いてみたのだ。

 

 私は少なくとも、現役のヤクザ者より一段高い士気があると自惚れていた。

 そして度胸も行動力も現役のヤクザ者には、決して引けを取らないと自信もあった。

 その自信が私の心の中で、大きな音を立てて崩れようとしている。

 

 幕末新撰組の副長・土方歳三と同じで、六代目山口組の中では何かと悪者にされて来た高山清司若頭が、男の中の男として潔い所作をしたからである。

 

 矢張り私は井の中の蛙(かわず)だったのだろうか・・・

 井の中の蛙は、大海(たいかい)を知らない。

 広く大きな海を知らないから、大言壮言が出来るのかも知れない・・・

 

 私は以前ブログに、これからの人生は若い頃に見た夢を実現するのが私に与えられた天命だと書いた。

 いま考えれば、茶番だ。

 

 こんな事を臆面もなく天下に公言出来る男が「竹垣悟」と云う男の傾奇者(かぶきもの)たる所以なのだ。

 

 これは、私の先祖である戦国時代に鈴鳴りの武将と云われた仙石権兵衛秀久の血を引き継いで居る所為だろう。

 

 私は先駆けてこそ、華のある男の生き方であり、いつか散る儚い人の世の運命(さだめ)だと思うのだが・・・

 この世の事は、何事も上手く出来たもので、人の夢と書いて儚(はかな)いと読む。

 

 天下人と云われた豊臣秀吉でさえ「・・・なにわのことも 夢のまた夢」と書き遺して死んだ。

 

 男のロマンを完遂しても、次から次へと野心が膨らむのが、男と云う生き物の宿命だと私はつくづく思う。

 

 私は出来ることなら、この命を投げ売ってでも名を末代まで残したい。

 ひとつしかない私が選んだ「暴力団更生支援」という道を私は完遂したい。

 

 率直に云えば男とは、こう云う生き物だろう・・・

 

 この歳での出発なので茨の道だが、どんな幸運な道でも、あの世へ行く道は同じなのだ。

 

 だから私は、いつか来た道を引き返すつもりはない。

 

 あとを振り向かないのが、男の潔さだと私は常々云って来た。

 

 余談だが・・・

 ひとむかし前と比べれば、女が抱ける男の平均寿命が延びた。

 極論を云えば、80歳になっても健康で金さえあれば、若い頃と同じように女が抱けるのだ。

 

 思考能力さえ衰えてなければ、今やどんな事でも実現させることが可能な時代になった・・・

 

 時代の流れと云われてしまえばそれまでだが、今や70代になってもトップとして君臨する政・財界人は多い。

  

 人間に煩悩が残っている限り、何事も現役で過ごすことが可能な時代になった。

 

 思えば贅沢な時代になったものだ。

 

 安藤昇が「色事の品格・大人の男の粋な遊び方」という本で、80歳でも尚、現役だと書いていた。

 功成り名を遂げた男とは、かくあるべしだと安藤昇の本を読んで思う今日此の頃の私である。