三代に亘る義竜会の光芒

昭和55年夏の一葉。右から(後の)義竜会顧問・坂本義一、舎弟頭・西村学、会長・竹垣悟(当時29歳) 若頭・西川和博、総本部長・前田政行
昭和55年夏の一葉。右から(後の)義竜会顧問・坂本義一、舎弟頭・西村学、会長・竹垣悟(当時29歳) 若頭・西川和博、総本部長・前田政行

 私は「義竜会」と云う、今では「五輪塔」に名を残すだけの云わば「伝説」の中でしか存在しない組織を率いて、竹中組・中野会・古川組と「三代」に亘って「山口組」の光と陰を見ながらヤクザ渡世を張って来た。

 

 私がヤクザ渡世に身を投じたのは、一重に坂本義一と云う当時竹中組若頭補佐だった男が好きだったからだ。

 そして坂本の親分だった竹中正久の盃を受けて順調にヤクザ社会での自分の地位を築いて来た。

 

 その親分・竹中正久が山口組四代目を襲名して山口組の歴史に名を刻んで居るので、私は実弟の竹中武が山口組を割って出ると云う時は正直驚いた。

 そして「竹中武は自分の意地を通すことだけを考えている」と思った・・・

 

 山口組の為に、長い懲役に行って居る者が何人も居るのにである。

 

 竹中武ひとりが依怙地になって、五代目に付いて行けないと云うので私達は一旦、山口組を出た。

 

 そして外から山口組を眺めて見ると「山口組を割る」と云う事は先代・竹中正久の意志に反すると思った。

 だから私たち竹中組の者はほとんど、山口組に復帰した。

 

 ・・・その頃中野太郎と初犯時代に神戸刑務所で一緒だった頃の「縁」を思い出した。

 

 私が工場の副担当に後ろから飛び掛かろうとする寸前、中野太郎が新入考査で「竹中正久に私の事を頼まれて居る」と云って私を「制止」してくれたのだ。

 

 それ以来、中野太郎の存在が私の心に深く残った。

 だから私は迷わず中野太郎の盃を受ける事にした。

 

 偶然にも中野太郎との結縁を執り持ってくれたのが「当時暴力団対策課」の課長で、のちに警視正にまで栄転した林照明その人だった。

 この当時は、暴対法もない閑(のどか)な時代だったのである。

 

 私は「義竜会」と云う組織を「やくざ社会」の「ブランド」にする為に5回も懲役に行って来た。

 

 そんな私が身に沁みた言葉は「男のやきもち」と「まさかの坂 」に気をつけなければいけない、という片岡昭生の忠告だった。

 

 ・・・子供の頃より私は「意地っ張りな男」と云われて来た。

  

 私は単純を絵に描いた様な男で何事も先頭を切って行く男だ。

 じっと座って指示を出す親分タイプの男ではなく、いわば斬り込み隊長そのままの男である。

 

 私がこの世に生を受けて今日まで、何とか人並みに生きて来れたのは、誰よりも「運が良かったから」だ。

 

 体力に恵まれ、家族や良い弟子達に恵まれて来た。

  

 こんな私が仏になる前に、やらなければならないことが「暴力団は侠客になれ」と云う運動だ。

 

 私はこの「五仁會ブログ」で、自分が語るほど立派な男ではないと云うのは良く解って居る。

 

 だが、どうせ人間一度は死ぬのだ。

 その男の「遺言状」が、このブログだと思って貰えれば良いのである。

 

 余談だが・・・

 三代目山健組の本部長だった片岡昭生のことだが・・・

 この片岡は無念にも、山口組としては御法度の覚醒剤所持と云う容疑で警察に逮捕された。

 

 山口組では覚醒剤が関連先から挙がって逮捕されれば、それが致命傷になるのだ。

 

 片岡昭生は逮捕容疑の処分が決まらぬ内から絶縁になった・・・

 結果、覚醒剤所持は無罪になった。

 

 この時、私は同じ極道として片岡昭生に同情した。

 

 片岡昭生も山口組の為に、入江秀雄と共に大阪戦争で長い懲役に行った一人だが、晩年は恵まれず淋しい人生を送って居る。

 

 私と片岡昭生とのエピソードだが、まだ私が堅気になって間もなくの頃(あれは7年位前)だったろうか・・・

 盃をする寸前まで行った事がある。

 神戸港を一周する「コンチェルト号」に二人で乗って下船してから盃の話しをしたのだ。

 お互い堅気だが、ここで「男の契り」を結ぼうと私から片岡昭生に云った・・・

 

 もちろん盃も用意して行った。

 

 その時私は片岡に「何やったらあんたが兄貴分になってくれたらええで」と云った。

 すると片岡は「わしはそんな器量はおまへんがな」と云った。

 

 そこで私が「それやったら俺が兄貴分になるわ」と云って片岡に盃を渡したのである。

 

 その盃を持って片岡は一旦、自宅へ帰る為にバスに乗ったのだが、出発前にバスを降りて来た。

 そして私に盃を返して又バスに乗り、私と目線を合わせぬようにして、その日はそのまま北区の鈴蘭台にあった自宅へ帰って行った。

 

 それからも色々と付き合って居たのだが、片岡自身まだ「ヤクザ社会」に未練があるように見受けられたので、それから私と片岡の縁は遠のいて行った・・・

 

 男として目指す生き様が違えば、行き先も当然違って来る。

 

 結論を云うと、私は片岡昭生の男としての「器量」と「実績」を「堅気の世界」で役立たせてもらいたいのだ。

 

コメント: 3 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    大阪 川島 (土曜日, 21 9月 2013 21:48)

    会長のブログは私にとっては人の道を教えていただくバイブルです。
    読むたびに私自身の人生、生き方を考える良い機会になっております。
    師に怒られているように感じることがあり、不惑の自分はまだまだ修行です。
    なかなかブログを書くことも大変だと思いますがこれからもよろしくお願い致します。

    行く道に 一筋の光(こう) 我が前に 心の迷い 何処へか消えぬ・・・

  • #2

    竹垣 悟 (土曜日, 21 9月 2013 21:52)

    大阪 川島様
    コメントを読む身になって、ひとつに繋げました。
    最後の短歌「ぬ・・・」を足しときます。
    私もむかし不惑を迎えた頃、短歌にはまった事があります。
    40代と云うのは、何をするにも惑わされずに生きる事だとか・・・

  • #3

    大阪 川島 (月曜日, 23 9月 2013 10:33)

    会長、私のミスでご迷惑お掛けして申し訳ありませんでした。私は地元が播州なので勝手に縁を感じております。句の添削もありがとうございます。なかなか地元に帰る機会がありませんが帰る時に一度連絡させて頂きます。季節の変わり目ですからお身体ご自愛下さい。