26

3月

2013

竹中組最後の若頭・悲運の闘将 高山一夫

写真は、ヤクザの哀れさを演じる鶴田浩二と室田日出男、その横が鶴田の付き人でピラニア軍団の野口貴史、左端が子分その一に扮したダボシャツ姿の竹垣悟(当時18歳)右側奥が山浦栄
写真は、ヤクザの哀れさを演じる鶴田浩二と室田日出男、その横が鶴田の付き人でピラニア軍団の野口貴史、左端が子分その一に扮したダボシャツ姿の竹垣悟(当時18歳)右側奥が山浦栄

 さて、写真の解説はこれ位で置き、本題に入り、姫路事件で実行犯として唯ひとり懲役20年を宣告された高山一夫の実像に迫る

 

 私は男として腹の中に残って居る「高山一夫の魂の叫び」をどうしても書き残したいと思いペンを執った。

 

 私があの世に居る戦友「高山一夫」に今してやれる事は、これ位のことしかないのである。

 

 竹中武に云わせれば「世に出すのが恥ずかしい男だった」とか・・・

 しかし四代目竹中正久親分は、こんな極道らしい極道は居ないと絶賛して居たのである。

 

 だから竹中武が竹中組の当代になった時、高山一夫が出所したら「若頭」にと、その時すでに決めて居た程の男だったのだ。

 高山一夫の検事調書を見た者なら、この男の供述に惚れ込む筈である。

 

 昭和55年1月10日・岡山県津山市で、竹中組々員小椋義政、外1名が射殺された。

 私はその事件の報復でその夜、高山一夫(当時は平尾光の舎弟)・山本卓馬(大西組若頭)・小島誠二(笹部組副組長)とで、木下会々長の白鷺町に在った二号宅を銃撃した。

 

 私は当時すでに「竹中正久」の「盃」を受けて居たので、私が襲撃班のリーダー格である。

 大西康雄・平尾光・笹部静雄と、竹中組三羽鴉の組員を従えての「木下会」への報復戦の火蓋を切ったのであった。

 

 その先陣の名誉を私達が担ったのだ。

 この時、三羽鴉の中で私は何故か「大西康雄」に電話した。

 

 木下会々長の二号宅の呼び鈴をいくら「ピンポン、ピンポン」と鳴らしても、誰も出て来ないからだ。

 でも大西康雄は「今日起きた事は、今日中に返しをせなあかん。そやから、どこでもええから殺れ」と云う。

 

 私はその言葉を肝に銘じ「呼び鈴」を押し続けた。

 そして「覗き口」が「人」が「覗いて暗くなる」のを確かめてから後方に下がり、拳銃を発射した。

 狭い路地だったが、拳銃を固定する為に、拝むような型になり5発発射した。

 そのドアには「防弾」がしてあり、私が撃った「銃弾」は「こと如く」跳ね返って居たのである。

 

 そんな事とは露ほども知らぬ私は、引き金を引き続けた。

 「パン パン パーン」と乾いた音を鳴らしながら、拳銃を撃ち続けると離れてその様子を見て居た「高山一夫」と「山本卓馬」も拳銃を発射した。

 

 その時、十数発の弾痕がドアに残って居たそうである。

 そして大西康雄に連絡を入れると「道具は始末して兎に角、東へ走れ」と云うので、私はその時着て居た服を脱ぎ、新しい服に着替えて大阪に向かった。

 

 逃亡中の検問で、服から「硝煙反応」が出るのを防ぐ為である。

 だから手首も、石鹸で擦り付けるように洗った。

 

 そして私の友人・岸田清志に電話して車の運転を頼み「逃亡」したのだ。

 そんな高山一夫との仲だけに、私はこの高山とは何でも良く話し合ったものだ。

 

 私がこんな事を書くのは、高山一夫の汚名を晴らしたいとの「一念」からである。

 諄い様だが竹中武が、高山一夫は「世に出すのに恥ずかしい男だ」と月刊誌上で云って居たが、高山一夫が20年間の懲役で、親分・竹中正久が暗殺されてから、旭川刑務所の昼夜独居を自ら希望して「喪に服した」のは有名な話なのだ。

 

 その間に、高山一夫の思考力も錆(さび)てしまったのである。

 高山が20年間の「錆(さび)」を付けて出所して来たのは「竹中武」外、ほとんどの者が知って居た事なのだ。

 

 それを、竹中組の為に20年間も服役して「辛い思いも耐えて来た」高山の懲役を無駄にする様な言葉を世に出されたら、私は「戦友」の事なので、どうにも腹の虫が収まらないのだ。

 今日まで、その腹の虫を抑えて来たのだ。

 

 私は竹中武の通夜と葬式にも出た。

 それに四十九日の法要と、納骨にも出席して「竹中武」に対する私の「この世の義理」は全て果たしたつもりだ。

 

 ついでだが納骨の時、ふたつの「骨つぼ」の骨をひとつにした「その時」私の目の前を、竹中武の骨の一片が蝶々の様に「ひらひら」と落ちて行った。

 私はまるでドラマの様に、その骨の前へ手を出し、竹中武の骨の一片を手のひらに乗せた。

 そして無造作に、その骨を口の中へ放り込んで「ガリガリ」と音を鳴らして食べた。

 

 私は高山一夫の自殺を思うと、無念の涙が溢れる。

 だから竹中武の骨を無造作に口に放り込んで「ガリガリ」と食べて、高山一夫の無念を晴らしたのだ。

 

 こんな事をして居るから健康オタクの私でも「ポン中」に間違われるのである。

 でも人にどう思われようと、ここまで来たら私は「自分の生き方」を通すしかないのだ。

 

 私は、私所で若頭をさせて居た剣(渡邉)真文に「親分はポンを打ってなかっても打ったようになるからいいじゃないですか」と、私がトッパな行動に走る時いつもそう云って居た。

 剣は、私の行く所はどこでも連れて行ったし、長い間「会長秘書室長」として私の側に置いて来た。

 私が最も信頼する男の一人だったのだ。

 

 今は九州の地元に帰って、私が堅気になった時、一緒に堅気になり現在も私の良き相談相手として元気に自分の生き方を通して男として生きている。

 嫁も、私の嫁と実の姉妹の様に今でも仲良く付き合いをして居る。

 

 こんな私の生き方なので、高山一夫が自殺する前に電話で話した。

 

 その時、高山は山口組を出て堅気になって居たのは知って居たが「兄弟、また頑張ろうやないか」と私が励ます意味で云うと、高山は「わしはもうヤクザは懲り懲りじゃ。こんな汚い世界やったとは思わんかった」と云った。

 高山一夫のその言葉が、切なく私の心に響いたのだ。

 

 私は、竹中武が「竹中組」を高山一夫に譲って「3年後」に、これも20年を務めた「大西正一」に譲る話しまでして「六代目山口組」と話しが付いて居たと聞いていた。

 

 そこまでは良かったが「竹中武」が竹中組の「総裁」とか「顧問」でも、六代目山口組から残れないと云われて「吐いた唾を飲み込んだ」と、高山一夫から聞いた。

 

 そして山口組の最高幹部(現在舎弟の侠友会々長・寺岡修)と逢って居たのを坪田英和に見られ「竹中武」にチンコロされて「マンションから出て行け」と云われて放り出されたとも聞いた。

 

 私は高山一夫と共に拳銃を持って走った仲なので、この男の気持は良く分かる。

 高山一夫が私に最後に云った言葉は「わしも平尾光や大西正一が竹中組を出る時、一緒に出ときゃ良かった」「船に乗り遅れた」とも云って居た。

 

 私は高山一夫の事を想うと「反対側の自分」を見る思いがするのである。

 あれだけ飛ぶ鳥を落とし、この世の春を謳歌したはずの竹中組の功労者でさえ、出所したらバブルの泡も残って居なかったのだ。

 

 これがヤクザの末路だと云ってしまえば簡単な話しなのだが、高山一夫の様に、何回か拳銃を持って「組」の為に長い懲役に行き、竹中武が「平尾光」に引退を迫られた時(この時は大西正一始め、何人か平尾に付いて竹中組を出た)

 まさにその時「高山一夫」が兄貴分である平尾光の反目に回り、竹中武を守ったのである。

 その高山を・・・私には信じられない思いでその話しを聞いた。

 

 当時はすでに、20年の懲役を務め上げても竹中組の代紋ではメシが喰えなかったのである。

 その時、平尾光には子供が出来て居た。

 その子供の為に、平尾は竹中組を出る決心をしたのだ。

 私はその時、平尾からその話しを直接聞いた。

 

 平尾光は、私を高く買ってくれて居た一人で、お互いに神戸拘置所に拘禁されて居た頃、手紙の遣り取りをして居た。

 

 その中で平尾は私に、出所したら「私を竹中組の若頭にする」と云ってくれて居たのだ。

 平尾は「俺も出所したらそれ位の事は親父(竹中正久)は聞いてくれるやろ」と手紙に書いてくれて居た。

 

 その時の平尾の手紙が、拘禁中の私の何よりもの励みになった。

 だから私は、今自分の持ってる才能でこの文章を書いて居るのだ。

 拘禁中と云うのは、こんな一言が、忘れられないぐらい嬉しいものなのである。

 本来私等がする苦労をして来た、これら竹中組々員の、今後少しでもの慰めになればと思い、私は笑われるのを承知でこんな不様な裏話を書いた。

 

 今まで私は、ヤクザとして良い男も随分見て来た。

 良い若い者も持って来た。

 

 それらの人にヤクザのつまらなさを、今更乍らに知って貰いたいと強く念じたい。

 流れに逆らうなと昔から言われて居るが、特に時代の流れが変わった事をいち早く知るのが「先見の明」と云う。

 

 私は時代に沿った生き方をして行けと「男気」が残って居る「ヤクザ社会」の者に云って居るのである。 

 

 格好の良い男の生き方とは、群れから離れて「男一匹」茫洋として生きて行くことだ。

 「男の中の男」とは、群れの中の男の事を云うのではなく「何事も孤独と向き合う男」の事を云うのである。

 

 こんな事を、この歳になって云う私はやっぱり「時代遅れの古びた男」で、人から見ればお笑い草の人生であろう。

 でも、この世の事は、この世で決着を付けたいと生きて来たのが私の生き様なのだ。

 

 それだけに、ヤクザ反対論を唱え続けるのだ。

 そして、侠客かぶれの男として侠客論を説くのである。        竹垣 悟

写真 竹中組三羽鴉の内、向かって右側奥から二人目が竹中組六代目若頭・笹部静男、向かって左側奥が竹中組七代目若頭・大西康雄、その横が後に大西の若頭を補佐する竹垣悟、中央媒酌人は上野武信                  「続きを読む」にクリックして、続きを読んで下さい。
写真 竹中組三羽鴉の内、向かって右側奥から二人目が竹中組六代目若頭・笹部静男、向かって左側奥が竹中組七代目若頭・大西康雄、その横が後に大西の若頭を補佐する竹垣悟、中央媒酌人は上野武信                  「続きを読む」にクリックして、続きを読んで下さい。
写真 昭和55年頃の私の舎弟・浦川嘉雄と前田政行(後に義竜会・総本部長) 五分兄弟分盃の一葉
写真 昭和55年頃の私の舎弟・浦川嘉雄と前田政行(後に義竜会・総本部長) 五分兄弟分盃の一葉

コメントをお書きください

コメント: 4

  • #1

    sss (水曜日, 03 7月 2013 21:56)

    武士道の中で生まれた侠客 ですが 時代は、イタズラに日本の生き方を変えていく
    いや 変えてきた カタギも極道も関係あらへん 武士道こそ 日本人の心です。

  • #2

    竹垣 悟 (木曜日, 04 7月 2013 11:14)

    御意同感です。

  • #3

    Y (土曜日, 07 9月 2013 22:54)

    中国歴史家司馬遷が、天は是か非か、と有名な言葉があります。一生懸命に働いた人間は報われない。要領のいい奴だけが階段を登って行く。どんな世界でも同じですね。

  • #4

    竹垣 悟 (月曜日, 09 9月 2013 11:56)

    ケースバイケースで、何事も一生懸命に物事に対処して行ける生真面目な性格が人としての信用に繋がります。
    そして強いてはそれが人に信頼感を与える事になるのです。
    要は何事も真面目でなければ運はひらけないと云う事です。
    逆に云えば、何々バカと云われるぐらい物事に徹して行けば必ず道はひらけると私は思って居ます。

  • loading