ヤクザの挽歌

極道渡世の男の道は、止むに止まれぬ男の意地で、ドスを片手に殴り込み。勝てば監獄、負ければ地獄。馬鹿を承知のヤクザ道。竹垣悟が憧れた男の世界とは、云わばヤクザでも正統派のヤクザ道だったのだ。その正統派の考えが高倉健の生き様の後追いをさせ、私の心の中に正統派のヤクザ像を根付かせたのである。高倉健は、そう云う意味では良いお手本だったのだ。
極道渡世の男の道は、止むに止まれぬ男の意地で、ドスを片手に殴り込み。勝てば監獄、負ければ地獄。馬鹿を承知のヤクザ道。竹垣悟が憧れた男の世界とは、云わばヤクザでも正統派のヤクザ道だったのだ。その正統派の考えが高倉健の生き様の後追いをさせ、私の心の中に正統派のヤクザ像を根付かせたのである。高倉健は、そう云う意味では良いお手本だったのだ。

 私は、中野太郎には「男心が男に惚れて」と東海林太郎が唄った「名月赤城山」の「国定忠治」の姿を重ね合わせるのである。

 それぐらい、自分の体を賭けて自分の若い者を守る親分だったのだ。

 

 私は、この中野太郎の生き様に憧れた一人である。

 強烈に憧れたのだ。

 

 五代目山口組々長・渡辺芳則にとっては惜しい人材だったと云っても過言ではあるまい。

 それだけに、渡辺芳則が当時の秘書・井奥文夫を通じて幹部会の報告を受けた際の所作が、私には嘆かれてならない。

 

 なぜ、泣いて馬謖(ばしょく)を斬れなかったのか・・・

 これは読者には、奥の深い言葉にしか聞こえないだろう。

 取り方は、ふたつあるからだ。

 

 栃木の実家の跡を継いでいる末弟の渡辺正を私は、同じ鳩の愛好家として良く知っているが、この渡辺正に、私が五代目の事を「あんちゃんが・・・」と云いかけると、即座に「竹垣さん、あんちゃんの事は云わないでよ」「俺は最初から、あんちゃんとは関係ないんだから」とハッキリ云われた。

 

 事実、20年近く前に初めて増田和雄の仲介で名古屋で逢った時「俺は渡世の人と関係ないからね」と、そう云って念を押された。

 渡辺正は、人から聞いた話しでは少し我儘な所も有るそうだが「一本筋が通り」物事をハッキリ云うタイプの男だそうだ。

 

 私は思う所があり最近、長年腹に溜めていた事を渡辺正に云った。

 渡辺正に逢った時「云おうと思って居たのだが」結局その時以来、ゆっくり逢う機会が無かったから今になったのである。 

 

 その結果、私の中での蟠(わだかま)りが取れた。

 そして、この機会に好感を持たねばと思った。

 

金が仇の世の中到来 

 

 昨今の「ヤクザ事情」を聞くと、実に嘆かわしい言葉が聞こえて来る。

 

 いくら「イケイケどんどん」で行き腰があり、しっかりして居ても、肝心な金が無ければ自分で道具(チャカ)も買えないのである。

 「いざ鎌倉」と云う時、自分で道具も持ってない男が「組織の為」に役立つ事は先ず不可能な事なのだ。

 

 事を成すには「普段の備え」こそが「肝要」であり、戦争が始まって「突撃」と云われて「バット1本」持って突っ込んで行ったのでは話しにならない。

 男の美学に反するからである。

 

 「備えあれば憂いなし」こそ、男の器量であり「第一義」なのだ。

 

 道具も持ってない組織は「侠」としてのプライドを考えず、バット1本で罪名も安く済まそうと云う「その世界をなめた人間の信義なき集団」である。

 

 私は長い間「武闘派」と云われた組織の「長」だったので、それが良く分かる。

 だから私は確信を持って云うのだ。

 男なら腹をくくって「ドスを片手」に殴り込みなのだ。

 「殺っても」「殺られても」これが「男の花道」である。

 

 これは、田岡一雄自伝で大長八郎を「一刀両断」に斬るハイライトシーンで「映画では高倉健が田岡一雄に扮し、菅原文太が大長八郎を演じて居た」この映画を見れば一目瞭然なのだ。

 

 男は「格好良く」勝負し、死にに行かなければならない生き物である。

 この考えなくして「田岡一雄の理念」を体現する事は不可能だと私はとっくの昔に悟っている。

 

 どの世界でも、人の手本となる人材は必要なのだ。

 そしてそれを身を以って「率先垂範」「体現」しようと努力する人間の「姿勢」を買ってやるべきなのだ。

 

 私は「親方」の云う事は、例え「白」であっても「黒」だと云うのが「ヤクザ」の世界だと思って居た。

 しかし、それは昔の古びたアルバムの中だけの世界で、昨今では惚れた親分の云う事しか聞かないのだそうだ。

 指示する方も、下手をすると「教唆」になるか「組織犯罪処罪法」と云う重い罪名に落ちるからである。

 

 良い格好を云うのではないが、私は若い者を行かせる時(取り調べが)「苦しかったら俺の名前を云えよ」と云って抗争に行かせて居た。

 だから尚更、自分が懲役に行く覚悟もないのに、なぜ下の者に自分が行けない懲役に行く様な事件を起こさせるのか、私は理解に苦しむのである。

 

 色んな意味で、今どきの暴力団社会での親子関係と云うのは、面従腹背と云う言葉が一番ぴったり当てはまるのであろうか・・

 こう云う言葉自体が仁侠道そのものの否定に繋がって居るのである。

 

 現在はほんの例外を除いて、世の中全体が「金の力」で廻って居るそうだ。

 仁侠道も一皮むけば金が仇の世の中になってしまったと云っても過言ではあるまい。

 

 口でいくら「綺麗事」を云っても「会費」が払えなかったら組に「貢献」出来ないのが今の世の中なのだ。

 他の組員に、その分金の負担を掛けるからだ。

 

 ヤクザは「金」で貢献するか「体」で貢献するかふたつにひとつだが、これは「抗争事件」が有ってこそで、普段何もない平和な時の事を云って居るのではない。

 会費は「平時」の時でも「抗争時」でも払うのがヤクザとしての最低限の義務(ルール)なのである。

 

 今時「会費」が払えない極道なら、百年頑張っても「出世」出来る見込みはなく、そんな人には私は「迷わず堅気になった方が良い」とアドバイスを贈りたい。

 それが、その人に対する「親切」であり「友情」だと思うのだ。

 

 極道をして居て、会費が払えない者がいくら真面目に頑張っても、人が認める訳もなく、どの組織に於いても幹部になれる筈もないのである。

 力とは、今の極道社会では甲斐性が一番の条件なのである。 

 

 この道理が分からない人間が「一般人」より少しばかり「その道」の人に増えたようなので、私の親方をして居た経験を踏まえてここに綴ってみた。

 

 先の「明確な夢」が描けない世界に「どっぷりと腰を下ろして」どうするのかと云いたいのだ。

 一回しかない人生を、世の為・人の為に社会奉仕するのも今の時代が求める人の道である。

 それ位の余裕のある心が育たなければ、暗い社会になって行くのだ。

 

 余談だが「男の中の男」として生きても所詮「ヤクザ者」で終わりである。

 「男の世界」とは、一皮むけば哀れなものである。

 

引かれ者の小唄

 ここで、中野太郎の事を述べてみたいと思う。

 この「中野太郎」は、私が身近で見て来て「竹中正久」と共に「男の中の男」だった数少ない一人である。

 

 私は「表舞台」は竹中正久で「裏方」に徹したのが、中野太郎の生き様であった様に思う。

 

 中野は、巷間「喧嘩太郎」と云われ、イケイケの典型的な親分で、物欲が無く「俺は、山口組の戦闘部隊を作るのが夢や」とか「俺は絵描きで軍師・中野太郎」だと私の前では口癖の様に云って居た。

 

 或る時、私が山口組の若頭問題に付いて「巷では、親分が若頭になると云ってまっせ」と水を向けると、中野太郎の答えは「その場面が来たら、山健組の総帥は桑田兼吉やから、桑田になって貰う」と云って居た。

 そう云う面でも出世の欲得は、皆目無かった人である。 

 

 私は中野会が絶縁と決まった時、当初同じ姫路出身で、私の事を「会長」と呼んで立ててくれて居た「井奥文夫」の所へ行こうと決めて、井奥にもその旨伝えて居た。

 

 処が、私が「井奥会」へ行く事を中野太郎がすごく反対したのである。

 

 最初、加藤眞介率いる加藤総業の舎弟頭・森本から電話があり「兄貴、親分(中野太郎)が兄貴に、井奥だけは行くなと云え、と云ってるので電話しましたんや。兄貴、井奥にだけは行ったらあきまへんで」と云う。

 

 そして次に、私と仲が良かった「会長代行補佐」で「ブロック長」の加藤眞介から電話があり「自分(私の事である)井奥へ行くんかいな、井奥へは行ったらアカンで。親分(中野太郎)が嫌っとうさかいな」と電話が有ったのである。

 森本も、加藤眞介も良い男で、私とは気が合った者達である。

 

 井奥には、その旨話して「万が一」中野太郎から直接「井奥へ行くな」と云われたら、私は中野太郎の云い分を聞くと云って居たのである。

 

 当初私は、中野太郎から「直接」電話は入らないだろうと高を括って居た面もあった。

 しかし、直接電話が掛かって来たのである。

 

 最初私とは、これも仲が良かった金山義弘から電話が有り「兄弟、久し振りやな。今親分が横に居り、兄弟に電話せいと云うので掛けたんや。チョット待ってや。親分と替わるさかいに」と云って中野太郎と替わった。

 

 中野が「竹垣か、俺や」「お前、井奥へ行くんか?井奥だけは行くな!」と強引に云うのである。

 私は、急なその言葉に戸惑い、返事をする事も出来ず、何秒かお互い「無言」の「空気」が流れたであろうか。

 

そして中野太郎が再び口を開き「俺は竹垣、お前を誰よりも可愛がって来た。だから一回だけ俺の無理を聞け」と云うのである。

 「井奥へ行くな」と「念を押す」のである。

 「私は去る鳥、あとを濁さず」と云う言葉を心に噛み締め「親分の言葉を、重く受け止めときます」と返事したのである。

 すると中野太郎は只一言、大声を発し「ここでハッキリせんかえ」とだけ云った。

 

 私は今迄、中野太郎を「男の中の男」だと思い、尊敬 して仕えて来たので、腹は決まって居たのだが「井奥文夫」本人に直接断りを云うまでは、こんな返事をするより外なかったのである。

 

 それから、井奥会の会長代行をして居た庄司光勇に電話して、中野太郎から電話が入った旨話し「近々井奥に断わりに行く」と伝えたのである。

 

 そしたら庄司が「兄弟、(井奥の)会長は兄弟が来るのを楽しみにしとうで。何とか考え直す事は出来んか」と云っていたが、私は中野太郎に「筋を通して」と、そればかりを思って居たので結局、井奥へは行かない旨「井奥に断わりを入れた」

 

 井奥にも悪い事をしたと思うが、世話になった私が尊敬する親分・中野太郎の言葉を重く受け止めなければ、私の「男の道」が立ち行かなかったのである。

 

 それで、山健組の振り分けで「古川真澄」の所へ送り込まれたのだが、古川は私が「中野太郎」のスパイだと思ったらしく、古川の本宅泊まりの当番は結局、私は一回もした事がない。

 私に本宅当番をさせるな、と厳命して居たそうだ。 

 

 実話ドキュメントを始め、二.三の週刊誌がG(義竜)会のT(竹垣悟)会長は、中野太郎の意を受け、山口組に戻ったと書いて居たからである。

 古川が、私に外顔(そとづら)で接して来て居たのも、案外そんな所から来て居たのも理由のひとつかも知れない。

 

 中野太郎が「還暦の祝」を、神戸のポートピアホテルで盛大に開催した時、私だけ「嫁と一緒に来い」と云って夫婦で招待された。

 

 そして席も、中野太郎夫婦と同じ席に、私達夫婦も同席させてくれた。

 私は中野会では、いつも百人以上の若い者が居り、絶えず組員の数は私が率いた「義竜会」がトップの組織だったのである。

 

 私は事件になって居ないとか、他の中野会組員が被ってくれた抗争事件に数多く参加して居り、中野会の「裏舞台」を吉野和利と二人で支えて居たと自負して居る。

 

 京都の散髪屋事件の時も、私の弟子がスワットの責任者をして居り、私はその事件の後、中野太郎より直接言葉を掛けられ「ありがとう」と礼を云われた。

 そのお礼が、中野太郎の還暦時の、私と嫁への招待と、中野太郎夫婦との同席だったのである。

 

 私は今でも「中野太郎」を「竹中正久」と共に尊敬し「男の中の男」だと思って居る。

 

 その中野太郎でさえ晩年は、この上なく哀れだと聞く。

 こんな話しを聞くのは辛い。

 ヤクザの末路は、矢張り「哀れ」が似合うのかも知れない。

 

 私は「宅見事件」は起こすべき事件ではなかったと思う。

 同じ組の若頭を殺る、と云う行為は、日本の暴力団社会の仕組みから行けば、これも「男の美学」と「侠客の掟」に反するからである。

 私は中野太郎ほどの人物がなぜ、宅見勝の暗殺指令を出したのか、今でも不思議に思う。

 これも酒の勢いで、吉野和利に発した「一言」が時代を変えたのであろうか・・・

 

 私の若い者と加藤総業の鳥屋原とで二人一組のチームを組ませて居たのだが、私の若い者は運悪く六本木の麻布警察署に捕まった。

 だから宅見勝への襲撃には加わらず、そのまま北陸の金沢刑務所に移送され服役した。

 

 これは余談だが、この男も義竜会の為に命を賭けて中野会ヒットマンチームとして頑張ってくれた。

 私が心底可愛がった、竹中組当時からの子飼いの若い衆で、もちろん側近中の側近だった男だ。

 

 私は酒を飲まなくなって11年が過ぎたが、酒を止めて良かったとつくづく思う。

 私も酒での失敗は数多く有るからである。 

 

 もちろん飲み屋街へもあまり行かなくなった。

 だから女とも縁がない。

 むしろ今では枯れてしまったと云うのが真相だ。

 

 ギャンブルはやらないし、強いて云うなら鳩を愛し、私に尽くしてくれた嫁や女を愛する事ぐらいだろうか・・・

 

 「酒と女は二号まで」と云う言葉は、私の持戒の言葉で、その酒も盃をする場合に限り、少しだけ(気持ちだけ)飲む。

 私は「養子縁組」をして、何人か私の「戸籍上」の「後継ぎ息子」が居るが、この養子縁組の時、日本古来の作法により「固めの盃」をする。

 これは今も昔も変わらない「日本の風土」に残る「伝統」である。

 

 「夫婦」固めの盃も同じである。

 私は、この盃は一度だけだと思って今日まで生きて来た。

 それで良かったと思って居る。

 

 私は盃の重さを知るが故に古川真澄が死んだ時、その枕許まで行き受けた盃を返したのである。

 漫画の世界であるが、それを地で行くのが竹垣悟と云う男の生き様なのだ。                  平成25年弥生7日草稿 五月30日訂正加筆  竹垣 悟

 

会津小鉄による「中野太郎襲撃事件」を私が知ったのは1996年7月10日「丁度」愛知県岡崎市に在る「岡崎拘置所」に在監中の「若い者」に面会した後だった。その事件を知り、私は即座に神戸のハーバーランドにある「メリケンパーク・オリエンタルホテル」に移動した。この時のホテルの向かい側に在る「モザイク」と夏の「夜風の涼しさ」に絶景を見る思いがした。この夜の私の胸中は、生涯忘れられない日である。あれから17年・・・月日が経つのは早いものである
会津小鉄による「中野太郎襲撃事件」を私が知ったのは1996年7月10日「丁度」愛知県岡崎市に在る「岡崎拘置所」に在監中の「若い者」に面会した後だった。その事件を知り、私は即座に神戸のハーバーランドにある「メリケンパーク・オリエンタルホテル」に移動した。この時のホテルの向かい側に在る「モザイク」と夏の「夜風の涼しさ」に絶景を見る思いがした。この夜の私の胸中は、生涯忘れられない日である。あれから17年・・・月日が経つのは早いものである

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コメント: 1
  • #1

    堀江 (火曜日, 14 3月 2017 20:04)

    私は大分県出身です。中野太郎親分は面識はありませんが、男として尊敬しております。
    男が男に惚れる。凄く素晴らしい事だと思います。任侠の世界はわかりませんが、上の人からは可愛がれ、下の人には可愛がってあげられる男として邁進したいと考えております。